スピリチュアリティ(精神性)~全ての存在との連帯感や感謝、そして驚異~PART.2

スピリチュアルで無いものとは?

霊能力に関する私の理解は現在も進化を続けていますが、私にとっては霊能力とは、スピリチュアリティ(精神性)の同義語ではありません。
私にとって、スピリチュアリティ(精神性)とは、すべての能力を使うための「方法」です。先ほども言いましたが、霊能力が占いのツールとしてのみ使われるのはもったいないことだと思いますし、むしろ霊能力は人生や、愛する人、そして神ともっと深く繋がるために使われるべきだと思います。
霊能力は、皆さんが情報を得るために目や耳を使うのと同様の感覚的な能力です。もしも霊能力の官能的側面が、スピリチュアルなのだとしたら、目の見える人は目の見えない人よりもスピリチュアルであるという事になります。しかし、それは全くの間違いです。私自身がその情報をどの様に考え、そしてそれをどのように利用して物事を判断するかに、スピリチュアルか否かという考えは当てはまりません。

例えば、クライアントの女性をリーディングした際に、彼女の夫が浮気をしていることが分かったとします。
私は、彼女の夫に関する様々なネガティブな内容を彼女に伝えることで、状況を悪化させることもできますが、その女性が、状況を自覚し理解できるようになるのを助けることもできます。明確さは、その女性が彼女の夫と向き合うことで、離婚するのか、夫を許すのか、夫の自己中心的な性格や彼女自身が彼を避けていなかったかに気が付き、また同じ過ちを犯さないように防ぐ価値があるのか等を決めるのに役に立ちます。
理解と明確さは、彼女がクリアでバランスのとれた行動をとり、より効率的に幸せを取り戻す力を彼女に与えてくれます。単に、彼女の夫が、如何に悪い人間かを彼女に伝えるだけでは、彼女を被害者意識と憎悪に満ちた状況に追い込むだけです。

私が、スピリチュアリティについて学び始めた頃に読んだ多くの本の著者には、それぞれ異なる信念がありました。
精神世界があの世を意味すると信じている著者、この世は恐ろしい「闇の次元」であると信じていたり、この肉体は私達ではないと考える著者や、この世と精神世界を隔てる壁が存在していると説く著者もいました。
しかし彼らは皆、スピリチュアリティ(精神性)とは、人間の毎日の生活と切り離せないものであると説明していました。人間なら誰でも、自分の知らないことを自分の知っていることと比較や対比させることで説明しようとしますが、それ自体を知ろうとしない傾向があるように思えます。
私達人間は、肉体と魂で成り立っています。つまり、調和していることが明確なのにも関わらず、スピリチュアリティ(精神性)が敵対的な方法で提示されている為になんだかしっくりこないのです。これは、私たちの肉体が実は、地球、水、空気で構成されているのに、見た目が異なる為に、それらとは全く違う存在であると言っているようなものです。

スピリチュアリティ(精神性)も、本質的にスピリチュアルではない物質や人生、超能力となにも違いません。
私にとってスピリチュアリティ(精神性)とは、全ての存在との連帯感やそれらへの感謝、そして驚異です。全てがスピリチュアル(精神的なもの)です。
私たちは、何かを説明する時に、頭の中でそれらを正と負に分けますが、本来全ては精神的な源の一部に過ぎません。魂には色も道徳的な変化も存在しません。
スピリチュアルでないものとはなんでしょうか?呪いのような邪悪な行為でさえ、スピリチュアルエネルギーの悪い使い方であると説明することができます。そして、それよりもっと物理的な、例えば窃盗や殺人といった悪意ある行いとなんら変わりはありません。
私たち自身が選んでいるだけです。物理的、知的、感情的、または精神的なエネルギーをどの様に使うのか、それこそが私にとってのスピリチュアリティ(精神性)です。

(おわり)