末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.4 ~「自信」の必要性(その1)~

何に対して「自信」を持ちたいのか

自分の本当の内なる輝きを呼び覚まし、ミラクルを体験しながらハートがワクワクして楽しめる自己実現の方法について、連載の形でお届けしているこのコラムですが、今月で4号目の今回は「自信」を持つことに関して触れてみたいと思います。

いざ「自己実現」のために動き出そうと思っても、積極的に必要な行動が起こせないまま半年が過ぎ、1年が過ぎ、「この歳にでもなれば、簡単には思うようにいかないものだよね」などと言い、「思い」や「願い」が単なる「夢」として何ら現実味を帯びることなく色あせていってしまう、そんな経験をお持ちの方がいらっしゃるかもしれません。

傍(はた)から見れば、「やってみればいいだけなんじゃない?」と思えるレベルの行動であっても、本人にとっては気の重い、相当な「勇気」や「熱意」、そして――確固たる「自信」がなければ踏み出せない、ひどく難しいことのように思えることがあります。

一歩進んでみるだけのことでも、それこそ崖から崖へと跳ぶような怖ろしさを覚える人もいますが、行動できない(正確に言うなら「行動しない」)ことの理由としてよく挙げられるのが、「やってみても、成功するかどうかわからない」ということと、「自信がない」というものです。

もうこれは、耳にタコができるほど聞いてきた言葉で、自分にとっての成功、本当の幸せを体験することに対して抵抗する、多くの人の心の、言わばひとつの「仕組み」、パターンからくる言葉なのだと、カウンセリングをしてきてわかったことですが、今回はその「自信」について、みなさんと一緒に深めていくことができればと思います。

 

多くの人が、「自信を持ちたい」と願っているようですが、何について「自信」を持ちたいのかと言えば、それはもちろん、「自分」なのですよね。

細かく言うなら「自分の力量」や「自分の才能」、「自分の容姿」といったところでしょうか。要は「自分という存在」そのものに、「自信」を持ちたいと思っているわけです。
もう少し掘り下げてみましょう。わたしたちの言う「自信」、これを何において持つことができるのかと言うと、大きく次の二つに分けることができます。

● 先天的に有していること(才能、能力、もともと努力なしにできる得意なこと、容姿やセンスなど)

● 後天的に身に付けたこと(練磨によって得た力量、数値化やランク付けなどによって優秀であると評価されたことなど)

自分の抱く「夢」のために進んでみたいけれども、「自信」がないからできないのだと思う人にとって、何があれば前進できる(できた)のかと言えば、それを成し得るだけの天賦の才であったり、確実に「できる」と言えるだけの具体的な根拠(データや誰かからの高い評価)なのでしょう。

生まれつき得意なわけではないし、磨き抜かれた腕を持っているわけでもなく、これまで何かで表彰されたためしがない。だから、「自信」がない。だから、できない。そう思っているわけです。

「自信」の必要性と「自我」

ところで、「自分」に対して永続的に「自信」を持つことは可能なことでしょうか。

「わたしは結構自分に自信あるんだよね」って思われる方もいらっしゃるのでしょうけれど、その根拠をたどってみて――たとえばそれが自分の力量(仕事がよくできるとか、料理が得意、英語がペラペラなど)によるものであったとしても、自分をはるかに上回る人と出会ったり、「追い越された」と思える出来事に遭遇したとき、しかもそういう人の存在によって自分が評価されなくなったりしても、「自信」を持っていられるでしょうか。

容姿端麗であっても誰だって年老いてしわくちゃになるのだし、才能があっても「結果」を出さなければ見向きもされないのだし、どれだけ努力し続けても報われないことはあるわけで、いくら今並々ならぬ「自信」があったとしても、それは一過性のものにすぎないはずです。

わたしたちは、永遠に、「自分」という存在に対して完全に「自信」を持つことはできません。

この、先天的なものであれ後天的なものであれ、「自分」と見ているその要素、これが「自分」と捉えているその存在は「自我(エゴ)」なのであって、

わたしたちが「自我」に「自信」を持つことなど、端(はな)から不可能なのです。

こんな人がいます。「いつ、やれるんですか(踏み出せるんですか)?」と問うた時、「完全な、100%準備が整ったと思える、その段階が来た時」だと答える人が。「自信がついたと思えた時」だと言う人が。

「自我」はそもそも「不完全」です。よく言いますね、「人間(わたしたち)は不完全な生き物」だと。あれは、ある意味間違っていて、ある意味その通りだと言えます。ここで言う「人間」、「わたしたち」とは「自我」のことを指しているのでしょう。そういう意味であるなら、確かに「不完全」です。欠点があり、完璧な人間などいない、というあれですね。

それを美しいとさえ言う人がいますが、そもそも「わたしたち」は、「自我」という存在ではないのです。

「自我」である「わたし」が、100%の完璧な、申し分のない「自分」になることなどあり得ないので、いくら待てど、出られないでいる「鳥かご」から飛び立てるその日は、知らされることがありません。

さて、随分と長くなってしまいました。「自信」がないから飛び立てない、というのが理由にはならないのだということを書いているわけですが、ではどうすればいいのか、この続きは来月の次号で扱いたいと思います。

(PART.5につづく)