Manawa~存在することは、力みなぎること~PART.1

Manawa(マナワ)の本質

今、この瞬間にここに存在してください。ナアウ(Na’au)、つまり腹と丹田を合わせたところに意識を集中し、自分の中心を感じてください。この瞬間に身を沈めてみてください。この瞬間の中に沈んでゆくことの確かさを感じてください。そして今度は、この瞬間の中に自分をふくらませていきます。下腹部、脇、そして背中に空気を吸い込んでふくらませ、体が完全に、そして心地よく伸び切っているところまできたら、今度は体の枠を超えて自分の息が宇宙を埋め尽くすかのようにして心をふくらませ、丹田が無限に広がっていくのを感じてください。実際に丹田が大きくなっているわけではありませんが、丹田の無限性を感じ始めることができます。それはつまり自分の無限性を感じることでもあります。そして同時に地球の上になみなみと注がれた海の水のように、液状になって何かを満たしている自分を感じます。その場に今、完全に存在するということ、存在するものであるということは、力みなぎること、又はパワーに満ちていることです。これがマナワ(manawa)の本質です。

仏教におけるマナワ(manawa)とは「マインドフルネス-mindfulness」(正念)です。そして仏教における「マインド-mind」は心と頭脳の双方を含む言葉です。仏教の瞑想は悟りや心の開放にたどり着くとされています。開放されたマインドは無知とは無縁なもので、このため全てを持ち、全ての力と調和するものです。開放されたマインドは過去や未来にとどまることはしません。開放されたマインドは永遠に「今」に存在し続けます。しかし、今という言葉は静的、あるいは動かないものである一方、存在と言う言葉は満ち溢れ、動的なものです。いきいきしているのです。

スピリチュアルな成長とは?

パワー(power:力)は、単体では意味がありません。究極的には、悟りを開くことのできた者は理由なく、またマイナスのカルマをこれ以上増やすことなく生きることができますが、悟りを開くまではパワーを智恵と情と共に行使する必要があります。多くの人は、超能力を身につけることが、スピリチュアルな成長と結びついていると考えているようですが、それは正しくありません。スピリチュアルな成長とは、その人がどれだけのパワーを持っているかではなく、人がどれだけ愛情深く、情け深く、穏やかで、そこに存在するのかということです。ヒーリングパワーでさえ、他者の苦しみを和らげるためではなく、注目を浴びるため、認められるため、名声を得るため、金銭を得るために誤った使い方をされることがあります。

一方で、真のヒーラーも傍観者が一見すると意地が悪く感じる行いをすることがあります。これは、病気を注目や愛情、好意を得る手段にしようとする人がいるからで、これらを与えてしまえばその人たちは病や弱さから抜け出すことができないのです。相談者を無視したり、追い返してしまうことが最善の薬となることもあります。ジョージ・クレイン(George Crane)の小説「ボーンズ・オブ・マスター(Bones of the Master)」に描かれたツィン ツァイ(Tsung Tsai)という仏教僧がいます。ツィン ツァイは、才能あふれる漢方と鍼療法の医師で、自宅で開業していたのですが、助けを求めて訪ねてくる人に「アスピリンでも飲んでおけ!」と扉越しに怒鳴ることがありました。彼は、その人の頭痛がアスピリン(鎮痛薬)ですぐに治ることもわかっていましたし、応対をすることで、その人が求めている注目を与えることになることもわかっていたのです。彼のやり方を残酷だと思う方もいるでしょう。でも、人に構ってもらうために頭痛等の病気をつくりだしてしまう人もいるのです。アスピリンにも害があり、僧侶の助けを乞うてきた人は、純粋に違う治療法を求めていたのかもしれませんが、僧侶は超能力により人が本当に助けを必要としている時を見抜くことができたのです。彼は常に今、この瞬間に対して適切であったのです。

~PART.2へつづく~