「あなたはだあれ?」~肉体でも肩書きでもない、本当の「私」を探す方法 PART.10

「私」マスター

「私はいない」。前回、そのような表現に帰結しました。「私はいない」なんて、天地がひっくり返るくらいの重大発表ですが、みなさんは別になんとも思わなかったことでしょう。

それは何故か……。「私がいない」なんて感じた瞬間がないので、どれだけ「私なんていないんだぞ!」と言われようと、何とも思わないわけです。それでも、あなたの胸ぐらをつかんで、「私なんていないんだ」「私なんていないんだ」と強引に説得して、あなたがついに「私なんていない!」と悟ったとしましょう。でも、「私なんていない!」と思っているのは、まぎれもなく「私」なんだから、やっぱり「私なんていない」は響かないでしょう。

そして、そこが大事なポイントなんです。「私がいない」なんて、「私」が感じることは出来ない。昨日まで10回も、「私」を探し続けて、達した答えは、【どう考えても「私」は居ない】。「私はいない」以外に答えはあり得ないのに、「私」を感じてしまう。

逆に考えれば、あなたは、普段、そのままで物凄い奇跡体験をしていることになります。どのような方法をとっても、「私」なんて説明できないのに、そんな奇跡の現象「私」が常に起こり続けている。一秒たりとも引き起こせないはずの、奇跡の「私」を、もう数十年間ずーっと感じ続けているんです。もしも、何かの拍子で「私」という感覚を完全に失ってしまったとします。その時に何とかして「私」と引き起こそうとします。でも、どう頑張っても「私」なんて引き起こせないんです。だって、「私」の原理が説明できないんだから。

間違って壊してしまった親の時計くらいなら、こっそり時計屋さんに持って行けば直るでしょう。でも、万一「私」を失ってしまったら、もう一度「私」を引き起こすことなんてできません。そのくらい、奇跡の現象を数十年間も起こし続けているのです。

「私」を感じることが出来ない人が、どんな時に「私」を感じるのですか?と聞いてきました。胸を張って答えてはどうでしょうか? 「私は、“私”を感じなかった瞬間が無いくらい“私”を感じることのプロなんです!
「花を見た時、“私”が花を見たと、“私”を感じます」
「ハンバーグを食べた時、“私”が味わったと、“私”を感じます」
「何かを認識している時、“私”を感じることが出来ます」
そうなんです。
何かを認識している時に、“私”は現れます。花という認識対象物が現れた時に、それを認識する主体として「私」が現れます。
ハンバーグという認識対象物が現れた時に、それを認識する主体として「私」が現れる。そして、連続して「私」を感じ続けているということは、連続して何かを認識し続けているということ。
視覚で、嗅覚で、聴覚で、触覚で、味覚で、感覚で何かを認識した時、それを認識するものとして「私」が現れます。
ということは、認識していない時は「私」がいなくなります。

五感が私という認識を生み出す

目をつぶって、「視覚」を消します
鼻に栓をして「嗅覚」を消します
サイレンス機能付きのイヤホンで、「聴覚」を消します
今、口に何も入っていないから、味覚もありません
テンピュールシートの上に座って、床に座って感じる触覚も消します

これで何かを認識している状態を消します。見ていないし、聞いていないし、匂っていません。これで「私」を消しましょう!……みなさん「私」をちゃんと消すことができましたか? 消えませんよね? 外界を認識するための感覚器官をすべて塞いでも、「私」は決して消えません。それは、思考が残るからです。思考とは一体何なのでしょうか? ひょっとして、思考こそ「私」の正体なのでしょうか?

いいえ、違います。外側を認識するのが感覚器官なら、思考とは内側を認識する機能です。何か考え事をしている時を思い起こしてみればわかると思いますが、何かを考えているということは、考えの対象が在るはずです。

「ハンバーグ美味しかったなー」という思考があったとしましょう。この時、思考という感覚器官を使って認識を行っています。認識対象は、【ハンバーグ】や【美味しかった】などです。【ハンバーグ】【美味しかったなー】と思考する、私。思考という感覚機能を使って、それらを認識しています。ということはやはり、思考のその先に、認識主体である【本当の私】が居るわけです。

外界を認識する時、味覚や視覚などの感覚器官を使ってハンバーグを認識し、内側を認識する時、思考という感覚を使ってハンバーグを認識します。同じなんです。外側にある(と思い込んでいる)認識対象物も、内側に想起する認識対象物も、結局認識主体(真の私)が認識しているもの。

空海が、「“私”なんて外側にも内側にも、その間にもいない」と言ったのは、このことです。ヨーロッパの哲学者が言った「私とは思考である」というのは、「私とは目である」「私とは耳である」と同義です。目や耳や思考は、何かを認識するための器官や手法であり、断じて認識主体なわけがありません。それらを使った先に、認識主体があるのです。思考を使って、目を使って、鼻を使って、何かを認識される主体が。

そしてそれは、内にも外にもその間にも居ないとなると、じゃあ、一体それはどこにいるのでしょうか?

~つづく~

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