生きることに意欲的になれず
ふとした瞬間に、消えたい、と思うことがあります。
学生時代に聞いた
「親より先に死ぬのは一番の親不孝」
という言葉が、ずっと心に残っていて、
今すぐにでも死のう、などという気持ちは無いのですが、
このままだと、両親や兄弟がいなくなったら、
死に対しての抵抗がなくなってしまいそうで怖いです。
好きなこと、やりたいと思えることもあります。
ただ、なにがなんでもやる!という強い思いがもてず
大事なことも決断しきれなかったり、
出来ないなら出来ないでもいいと思ってしまうところがあります。
単なる逃げとも甘えともいえるのですが、
これから先、依存せず自立した生き方をしていきたいです。
厳しい言葉でも構わないので
なにかアドバイスをいただけたらと思います。
よろしくお願いいたします。
Miyaさん、初めまして。鶴見と申します。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
とても深淵で哲学的なご質問です。
ご入力なさったひとつひとつ、追いながらご回答申し上げたいと思います。
>生きることに意欲的になれず
>ふとした瞬間に、消えたい、と思うことがあります。
↓
このmiyaさんの言葉は、哲学的精神論を考えさせられます。
それは、「生きる」ことの反対語が「消える」になっているからです。
「生きていく」という事は「肉体を通して三次元の世界でエネルギー活動をしていく」という事だと致しますと、通常は「その反対の状態はエネルギー活動を停止する」という考えになると思います。
その際、肉体という存在は停止はしますが、三次元にまだ残っている事になります。
でも、miyaさんは「三次元での存在が無となる状態」と捉えているように思えます。
不勉強ですみません、確か偉い昔のお坊さんが
「人是皆空也」
とおっしゃったと記憶しています。
人はみんな空なのだ、という事です。
それはそうなんです。だって、人の真ん中は消化管であり、実は空洞なのですから。人はいわば、空洞の周りに血肉を付帯させた形で存在しているわけです。
つまり、真ん中は「空」、「無」でもあるわけです。
という事で、miyaさんは実は、よくご自分を見つめている状態なのだ、と私は考えます。
>学生時代に聞いた
>「親より先に死ぬのは一番の親不孝」
>という言葉が、ずっと心に残っていて、
>今すぐにでも死のう、などという気持ちは無いのですが、
>このままだと、両親や兄弟がいなくなったら、
>死に対しての抵抗がなくなってしまいそうで怖いです。
↓
そうですね。私も年老いた両親と舅・姑がおりますので、その言葉の意味は痛いほどわかるつもりです。子供も三人、おりますので更に、です。
でも、まだmiyaさんはお若いですよね。
そういたしますと、ご両親様もご兄弟様もまだお若いと思います。親御さんは多分、私と同年代でしょう。
でも、拝見する限りはご両親様はお元気そうですし、例えお病気をなさっても一病息災で特に、お父様はかなり長生きするかと思います。
お母様は、頑固で融通がきかず、でも情にもろい不器用なお父様を子供に押し付けるような形で先に逝くような事は出来ない、とお考えだと思います。
ですから、ご両親様はお互いに「自分が後から逝こう」と考えて長生きしていく事が出来ると思います。
ご兄弟様は多分、二度ほどお病気をなさるかと思いますが、70歳代までは大丈夫でしょう。
という事で、「親より先に…」はまだ、かなり先になります。
そして、この言葉はmiyaさんにとって、現実を過ごしていく為の一種の呪文となっています。
という事で、この件に関して直面なさるのはまだ、半世紀ほど先になるのではないかと思います。
>好きなこと、やりたいと思えることもあります。
>ただ、なにがなんでもやる!という強い思いがもてず
>大事なことも決断しきれなかったり、
>出来ないなら出来ないでもいいと思ってしまうところがあります。
↓
はい、人は誰でも尻に火がつかないと動かないものです。
農耕民族である日本人は、農耕をする為に「時期」というものを考えて行動していくDNAを受け継いでいます。
春になったら田植えをして、夏になったら草取りをして、秋になったら収穫して、冬になったら蓄える。このサイクルは、何がなんでもやる、という意識とは反するものです。
その意識は、狩猟民族のDNAから生じるものですね。
それで、欧米系の人たちはアグレッシブなわけです。
DNAに登録されていない意識を抱く、という事は非常に困難な事です。
強いて申し上げれば、前述したように「尻に火がつかないと」、つまり貯蓄した作物が燃えるような事がなければ突発的な動きはしなくて当然なのです。
miyaさんは自然にしたがっている、という事ですね。
>単なる逃げとも甘えともいえるのですが、
>これから先、依存せず自立した生き方をしていきたいです。
↓
さて。ここです。
miyaさん、どうしてここで、今までの文章と脈絡が無い
「依存せず自立した生き方」
という言葉が出てきたのでしょうか。
この言葉、第三者から言われた言葉では無いでしょうか。
今までのmiyaさんの文章の中には、自分を見つめる傾向が見られます。
そして、ご自分と周囲をよく分析しているように思います。
ただ、この言葉だけが、自分の内から発せられた言葉とは違う内容です。
そして、「依存しない・自立する」という事はそのすぐ前にある文章、「逃げ・甘え」とは全く絡まらない事です。
誰かにそう言われたのか。
本等で読んで、その言葉が残っていてそれだけが独り歩きをしているのか。
前述しましたように日本民族は農耕民族であり、コミュニティを作って太古から暮らしています。
そこで自立し、依存しなければどうなるか。
そう、コミュニティに居る事か出来ず、その場から去る事になります。コミュニティから消えるわけです。でも、それは消滅にはなりません。死になるわけです。
miyaさんが消滅を望んでおいでになるとしましたら、今の社会ではそれはどうしても叶わないという事になります。
それならば、どうするか。
DNAに従い、人と人同士で必要な依存をしつつ、コミュニティの自立を促していけばよいのです。
それには、三次元的なエネルギーの存在である事が必須です。
これが生きる、という事です。
生きて、生きて。最期のその時まで生きていく。
そうなるように、人はプログラムされているのです。
miyaさん、これが私のお答えです。