ペリリュー島 慰霊の旅〜ペリリュー島の戦いは、1944年9月15日から2カ月半にわたって繰り広げられました。

パラオというと、世界有数のダイビングスポットとして有名です。

そのパラオで、第二次世界大戦中に日米の大激戦が繰り広げられたということを知ったのは今から3年前のことでした。

ちょうどその1カ月後に、天皇皇后両陛下がペリリュー島へ慰霊訪問されるというタイミングで知ったペリリュー島の話は、涙なしでは聞けないものでした。

そのペリリュ―島へ慰霊に行くことになったのは、私と同じくセラピストをしている母が、ペリリュー島に行かれた方のセッションをした時に、「慰霊に来てほしい」というメッセージを受け取ったからでした。

 

ペリリュー島の戦いは、1944年9月15日から2カ月半にわたって繰り広げられました。

日本軍は1万1千人、対するアメリカ軍は4万5千人。
アメリカ軍は、上陸前に3日かけて島内のジャングルを焼き払って島を丸裸にし、「3日で陥落する」と豪語して開始した上陸作戦。
圧倒的な物資に支えられたアメリカ軍と、補給を断たれて限られた物資の日本軍とでは、大人と子供のケンカのような状態だったのに、日本軍は徹底抗戦を繰り広げ、2カ月半も戦いは続いたのです。
最終的に、日本軍はほぼ全滅、アメリカ軍は死傷者1万人。
日本だけでなく、アメリカにとっても犠牲者の大きな戦いでした。

ペリリュー島に上陸して最初に目にしたのが、こちらの橋げた。
アメリカ軍が上陸前に補給路を断つために撃破したものだそうです。

千人洞窟。
文字通り、千人が隠れられるという洞窟。
日本軍が石灰岩を手で掘って作ったものだそうです。
ここに隠れることで上陸前の爆撃の嵐から身を守ることができたのです。

千人洞窟の中には瓶や食器などが残っていました。
洞窟では、話を聞くだけでは感じられない、当時の息吹がリアルに感じられ、胸に迫るものがありました。

トーチカ。
銃眼が並んでいます。
トーチカは島中に作られたそうです。

第二次世界大戦記念博物館。
元々は日本軍の弾薬庫だったそうです。

飛行場。
アメリカ軍はこの飛行場が欲しくてペリリュー島を陥落したのでした。

元日本軍総司令部跡地。

建物の中心に爆弾が落ちて屋根も二階の床もなくなっていました。

オレンジビーチ。
アメリカ軍の上陸作戦はここから始まりました。

ペリリュー平和記念公園の慰霊碑。
天皇皇后両陛下が献花された場所です。

両陛下はアメリカの慰霊碑にも献花されたそうです。

ペリリュ―神社。

この奥にあるBloody Nose Ridge(大山)で、ペリリュ―島守備隊長の中川大佐が最期を遂げられた場所にも行きました。
写真を撮るのは憚られましたが、祈りを捧げました。

後から知ったことですが、ペリリュー島を訪問した11月27日は、なんと74年前にペリリュー島が陥落した日でした。
ペリリュー島が陥落した日に訪問することになったのも、お導きだったのだとしか思えません。

ペリリュー島の慰霊は、パラオに向かう3日ほど前から始まり、日本兵のみならず、沢山のアメリカ兵も光に還っていきました。
ペリリュー島の訪問をした日の夜は、日本兵の先祖の方々が「ありがとう」「ありがとう」とお礼を伝えてくださいました。

の大戦から70年以上経つのに、まだ光に還られていない方がいらっしゃるということを実感しました。
ペリリュー島の日本軍の平均年齢はなんと24歳だったそうです。
その若さで国を守るために戦って、人生を終えた人がこんなにも沢山いるということは、今の平和な日本からは想像もできません。

想像できないと、人は忘れてしまいます。
忘れると、同じ過ちを繰り返します。
戦争とは、こんなにも悲惨なものだということを風化させないことが、これからの平和を守っていくことにつながるのだと感じました。

どうか世界が平和でありますように。

 

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