「あなたはだあれ?」~肉体でも肩書きでもない、本当の「私」を探す方法 PART.5

「ネーティ・ネーティ(~に非ず、~に非ず)」の心理とは?

「私」を本気で探しまくったあなたが、「究極の私の素」を発見したとします。もちろん、発見した「私」がいるんだから、発見されたそれは究極な私なわけが無いのですが、でも、究極の私が居たと仮定します。その「究極の私」こそが、全てを認識する主体であり、それが「私は居るぞ~、私~、私~」と、強力に私の電波を出しているとします。それは、全ての認識主体です。「全てを見るもの」「全てを認識するもの」「究極の私の素」

でも、「私は○○です」。と言った瞬間に、○○さえも認識してしまうものが表れてしまうのです。そっと、「私は○○に非ず」と言ってみましょう。さぁ、究極の私の素「これぞ私!」の存在が、「私は○○じゃ無い」といました。○○は全ての認識の源なので、○○を絶対に認識することはできませんが、○○以外の部分は容易に想像がつきます。○○以外とは、認識できるものの全てで、です。なぜかと言うと、○○は全てを認識する存在なのだから、○○以外とは、認識できるもの全てになります。

認識出来るもの全てとは、この世のことです。この世にある全ては認識出来きます。花は見えるし、音は聞も聞こえます。日常において、「あれ、なんだかあれは認識できないぞ」というものはありません。見えるし、嗅げるし、触れるし、反応を検出できるのですから。なにより、認識できないものがあるのなら、「認識できてない」ということすら思えないのです。まぁ、とにかく、この世にある全てが、「○○以外」になりました。ということで、「私は、○○に非ず」という表現が表わしているのは、「○○以外の全て」になります。

と言うことは……、いま、「○○以外の全ての部分」を表現できたことになるんだから、「【○○以外の部分】以外の部分である、○○」を表現するには、「私は○○非ず、に非ず」と言えば良いのではないでしょうか。これこそが、「ネーティ・ネーティ」の解釈です。この原理では、「私は、インド人である」とは、言うことができません。だったら「私はインド人に非ず、に非ずである」と言えば、究極の私さえも表現できるのではないでしょうか? 「インド人に非ず、に非ず」⇒「インド人以外、以外」。でも、「インド人じゃ無いもの、じゃ無いもの」は、結局、インド人と言うことになりますよね。

これは、言葉遊びじゃないですし、論理的考察による遊びでもありません。「究極な私」は、表現できないはずである。「究極な私」は、認識の対象物には絶対にならないのですから。対象物を認識するものこそ、私なんですから。じゃあ、私なんて、どこをどう探したって見つからないのでしょうか。「私」なんてどこにも居るわけがありません。

さぁ、次回は「私」にもう少しだけ迫れる方法を、過去の神様の発言をもとに一緒に見て行きましょう。

~つづく~

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