『心理セラピスト』が教える!『協調性とは』~「和を以て尊しとなす」の解釈~

協調性は人に合わせることではない

冒頭から奇妙な事を言いますが、僕はかなりのわがままです。そして、変わり者でもあります。たぶん、普段から僕の記事やブログ等を見てくれている人は「なんだ!自覚してたのか!」と思ったと思います。もちろん自覚しています。

僕は自分のことをわがままだと言いました。しかし、それは誰かを想いやる気持ちを必ずしも無視しているとか、そういう事ではありません。押すべきところは押しますし、引きべきところは引きます。ただ、自分の信念を簡単に曲げたりはしないということです……と、敢えて強調して言う事で気合いを入れている面もありますが。

そこで考えて欲しいのですが、『協調性』ってなんでしょうか。特に日本では勘違いしている人が多いと思うのですが、決して「右に倣え!」ではないんです。もちろん「長いものには巻かれろ!」という意味でもありません。学校教育では残念ながらそのように教えているところも少なくないと思いますが、それは危険です。何故なら、アイデンティティが育ちませんし、自分の心に嘘をつき続けたら心が病んで、ほぼもれなく病名がついてしまうからです。

聖徳太子の言葉

たぶん聖徳太子の言葉だったと思いますが「和を以て尊しとなす」というものがあります。ステキな言葉ですよね。この『和』が『協調性』を指すと思うのですが、試しに言葉を置き換えてみましょう。「『右に倣え』を以て尊しとなす」「『長いものに巻かれる』を以て尊しとなす」

如何でしょうか。たぶん、「聖徳太子はそんなことは言ってないんじゃないかな?」と思ったと思います。証拠こそありませんが、仮にそんな発言をしていたら歴史に名前が残っていなかったと思います。最近では架空の人物説もあるのでなんともいえませんが、冠位十二階(身分とか関係なくて能力主義で役人にするよという制度)からみても簡単に想像できますよね。

つまり『和』というのは、「自分らしさ(能力や考え)を活かして、みんなで協力し合って助け合おうね!」という解釈が正しいのではないかと思っています。人間誰しも完璧ではないのです。ちょっと難しいですが人間は不完全である事が完全と言っても良いくらいです。何故なら、人間は成長する生き物だからです。

ということは、たとえ個性と個性がぶつかり合ってしまったとしても、そんな状況の中でさえお互いを理解しようとする心を持つことが『協調性』だと言うことなのです。そして、たとえ分かち合うことができなくても、お互いが無益に戦い続ける必要はなく、お互いの幸せを願いつつ自分の道を歩むという選択肢があることも覚えておいて下さい。

自分の意見をしっかりと持ち、それでいて相手を尊重しようと心掛ける。紆余曲折して時には脱線しても、そこには大きな学びがあるのです。