ココロセラピストが語る!『仕事という病』とは?~病むために働くのではない。幸せになるために働くんだ!~

仕事だけでなく仕事上のストレスを家まで持ち込むから、夫婦仲や親子関係にヒビが入るのです。 家に帰ったら家庭の一員としての責任をしっかり果たせばいいのです。

ボランティアなのに格差も出て来るかもしれません。
そうすると、もはやボランティアという言葉の意味がなくなってしまいます。

ボランティアが本業で会社勤めが副業になってしまうと、生活が成り立たなくなってしまうかもしれません。
ボランティアはあくまでも自発的にするものであり、推奨するものではありません。

またはボランティアに依存する社会も問題です。
したい人がすれば良いのです。

働くというのは『等価交換』だと思うのです。
ボランティアの報酬(お金に限らず)は自己満足が基本です。
自分が満足し、納得できればよし。
対象者が喜んでくれればなおの事よし。
でも、仕事となると、そうではりません。
労働力を提供する代わりに対価が必要になって来ます。

では労働の何がいけないかというと、『職業選択の自由』の解釈なのかなという気がします。
どういうことかというと、「会社に入ってしまったからには会社の暗黙ルールに必ず従わなければならない」という風潮に問題があると思うのです。

「辛くても文句を言ってはならない」「安くても文句を言ってはならない」「サービス残業(早出)に文句を言ってはならない」「プラス評価よりもペナルティが多くても文句を言ってはならない」「休みが少なくても文句を言ってはならない」「昇給しなくても出世しなくても正社員になれなくても文句を言ってはいけない」「パワハラに文句を言ってはいけない」「プライベートよりも仕事を優先しなければならない」「急な呼び出しや勤務変更に文句を言ってはならない」「具合が悪いから休むなんてとんでもない」「体調管理が出来ないのは自己管理が出来ていないから無能な証だ」「上司が白を黒と言ったら、それが間違っていても黒なのだ」「子供のお迎え? ふざけるな!」「親の介護?施設に入れてしまえ!」「ノルマを達成できなかった恵方巻きは自分買い取り」etc……という暗黙ルール、身近に感じたことはありませんか。
法律が守られているかどうかの問題では無くて。

理不尽な事で怒鳴りつけられたり、殴られたり、軟禁されたり。
さすがにそれは悪質すぎますが、でもありますよね。

「仕事って言うのはね、辛くて当たり前なんだよ。人はね、そういう環境に揉まれて成長して行くモノなんだよ!」という間違った価値観を自信満々に強要する人がいる限り、時代は良い方向には向かいません。
そういう人が蔓延していると「働いたら負け」と思う人が出て来ても不思議ではないのかなと思うのです。
必ずしも「楽して儲けたい」とか「遊んで暮らしたい」とか「怠けて生きたい」という人が「働いたら負け」とヘラヘラしながら言っているとは限らないのです。

しかし、同時に「働かないと負け」という風潮がある事も忘れてはなりません。
『ニート』という言葉も、独り歩きして本来の意味を既に無くして「本人に意思があろうとなかろうと努力していようとしていなかろうと、訳があろうとなかろうと組織に属して働いていない人は社会の脱落者だ」という意味合いになってしまいました。

でも、それって変なのです。
おそらく憲法で言うところの『勤労の義務』のイメージが、いかなる理由でも就職していない人はダメ人間であるかのようなイメージを作り上げてしまったのでしょう。
でも、働き方って自由で良いのです。

仕事が生きがいで、24時間仕事をしていたい人もいれば、出来るだけ短時間で切り上げて家事や自己実現に向けた時間を確保したい人だっているのです。
怪我や病気は必ずしも自己管理が出来ていない結果ではありませんし、休んで回復させる時間だって必要なのです。

なのに、なんでもなんでも社会不適応のレッテルを貼ろうとするというのは、いささか矛盾を感じたりしないでしょうか。
理不尽な暗黙ルールを受け入れられない人は、間違った生き方をしているという事なのでしょうか。いいえ、違います。
そして、立場の問題こそありますが、経営する側や人材管理する側としては「安くて、使えて、融通がきいて、文句を言わない社員(orバイト)」が欲しいわけです。

その延長で「社員(orバイト)のモチベーションを上げれば、もっと業務を人生の優先事項として認識して、バリバリ働くと思うんだけど、みんな自分の言い分ばかり言って『やる気が無い』んだよな……」なんて、思ってしまったりもするわけです。

しかし、考えてみれば、モチベーションさえ上げればすべてうまくいくという発想があるとすれば、それそのものが間違っているのです。