ココロセラピストが語る!『踊らされないで生きる』とは? ~『○活』という洗脳~

『婚活=結婚しなければならない』、『終活=財産分与を考え、遺言を書き、葬儀やお墓の手配、遺品整理をしなければならない』。 ちょっと冷静に考えてみましょう。どちらも義務、あるいは当然とばかりに言葉が独り歩きしているように思うかもしれませんが、裏に誰か仕掛け人がいる気がしませんか。

ただ、そうではない人たちには少々息苦しさを感じてしまうかもしれません。
無言の圧力と言えば『退部』もそうですよね。
一度入ると、何故か辞めにくい。
転部したくても、それも何となく移りにくい。
誰かに何かを言われるわけではなく、すべては被害妄想なのかもしれませんが、おそらく、このような息苦しさを感じる人は少なからずいると思うのです。
もっと自由に辞めたり他に移ったり出来きる風土が出来ても良いのかなと思います。

たとえば、体育会系の部活で自分がレギュラーになれない事がなんとなくわかって来た人がいたとします。
残っていても仕方が無いし、未練も後悔も無いから、ここは潔く退部しようと思う人だっていると思いますし、それは悪いことではないと思うのです。

こんな話をすると「部活はチームなのだ! レギュラーになれないから、自分に才能が無いから辞めますじゃなくて、優秀な部員のサポートに徹する事も大事なのだ!」と怒りだす人もいるかもしれません。

でも、本当にそうでしょうか。
本人がそれを望めば良いですが、必ずしもそうではありません。
しかも応援を専門にしたいなら応援団に入り直せば良いのです。

受験勉強に専念するのも良いですし、学校では教えてくれない外国語を学んだり、料理を覚えたりする事に時間を使うことだって良い事だと思うのです。
『○活』という名前では無い活動だって外の世界にはいくらだってあるのです。

願わくば「人生の選択肢や可能性は無限大である。だから、若い力を使って既存の枠で活躍するもよし。独創的なアイディアや行動で新しい何かを創造するもよし」と言ったような教育方針を持ってくれる学校が増えて欲しいなと思うのです。

●就活●

『就活』も学校が好んで使う言葉かもしれません。
就職するための活動。
大事な事だと思います。
もちろん生きて行くためにはお金が必要ですし、仕事はあった方が良いです。

ただ、これも暗黙ルールが前提にある気がします。
学校を卒業して4月から新入社員として入社できる人材を作りたいわけです。
そもそも、それが変だと思いませんか。

卒業してから空白期間を開けるよりも、そのまま就職先が決まっていた方が確かに良い気分かもしれません。
しかし、すべての仕事が4月スタートなのかというと、そうでもありません。

学校の教師なら確かに4月スタートかもしれません。
でも、4月からスタートしないと運営が滞る職業ってそんなにあるのかと考えると、そうでもないのです。

4月スタートの会社に入りたい人は、それに向けて就職活動すれば良いだけだと思うのです。
逆に言うと、「4月から働ける会社を探して就活しなさい」という暗黙ルールを押し付けられている気がするのです。
年功序列も終身雇用も崩壊している時代だというのに。

この辺に見えない圧力を感じるのです。
卵が先か鶏が先かの話になってしまいますが、これは一部の企業や学校が勝手にそういう常識という幻想を作り出してしまっただけという気がするのです。

極端な事を言えば、自分の人生に好条件の仕事が見つかって雇って貰えるなら、学校を中退してその場で入社してしまったって良いと思うのです。
でも、そういう事って何故かないですよね。

逆に「学校は勉強するところだ」と言うのであれば『就活』なんかしなくても、「あちこちの企業から学生をスカウトに来るから、不安にならず勉強に打ち込みなさい。
好きなところを選べば良いから。とにかく専門性を高めなさい」と言えるような教育目標に切り替えた方が良い気もします。
将来が不安で勉強に打ち込めない。
こういう環境の方が変な気がしませんか。

また、これも奇妙なのですが、世の中の仕事はみんながみんなスーツを着て、敬語を話して、大きな声でハキハキ喋って、パソコンをカタカタ打って……というわけではありません。
職種によっては服装もまったく違いますし、髪形も違います。
求められるスキルも違います。

でも、それって恐らく、事務職や営業職の話ですよね。
どの職種でも必ずしも通用するスキルでは無いと思うのですが、その辺にも目指すべき職業みたいなものが暗に示されている気がするのです。

「そうじゃない職業を選ぶなら、協力しないからねー……」とでも言うような。悪意こそないのかもしれませんが、そういった暗黙ルールが、職業選択の自由を阻んでいる気がしてなりません。

どうも就活という言葉の裏には、没個性かつステレオタイプ(同質な人間)を量産する教育がチラホラ見え隠れするのです。
どうせ誘導するなら、もっと柔軟性があって、空気を読めて、臨機応変に動ける人間を増やしたり、場合によっては大胆に仕事を変えてみたり、1つダメでもまた違う道に進める環境を作って誘導した方が良い気がしませんか。