ココロセラピストが語る! 何故『ぼっち』は悪く解釈されるのか?

簡単なことではないかもしれませんが、『ぼっち』は『孤独』と解釈しないでください。今、たまたま一人の状況なのだと解釈して下さい。今、『ぼっち』でも、明日は誰かと仲良くつるむことだって不可能ではないのです。

お昼もいつも決まった仲間と一緒にランチしたりするのも何気にストレスだったりしませんか。お財布事情もあると思います。時にはダイエットをしたい時もあると思います。
なのに、そんなことは口にもできず、作り笑いをしながら相手(集団)のペースに合わせていたりする自分がイヤになることはないでしょうか。

女子会(井戸端会議)も仲間と交流出来て楽しいですが定期的すぎると、やっぱり参加したくない時もあったりするわけです。

育児中のママが多い集団にうっかり入ってしまうと、いつも子供の話ばかりされてうんざり。自分の子供が可愛いのはわかるけれど、正直よその子の話なんて聞きたくもない。でも、話題を変えようものなら、それこそイジメの対象にされたら恐い。

「彼氏なんていなくたってさー……」みたいな人たちのグループにうっかり入ってしまうと、それこそ恋愛をしたら裏切り者みたいな扱いをされそうで恐い。
お酒をガブガブ飲んでガハハと大声で笑って異性に相手にされない事を隠すために強がって騒いでいる。そんなメンバーの一員でいなければならない自分がイヤになる。そんな風に思った事はありませんか。

仲間外れにされたり、イジメの対象にさらたり、何処で何を言われているかわからないと不安だったり。無理に集団に属している人たちって、実はそういう不安や恐怖が根底にあったりしませんか。

もちろん、これは集団の否定的な一面の話です。意気投合出来て本当に楽しくて生活が彩るなら、ずっと誰かと一緒にいた方が良いと思います。

『ボス&取り巻き』で形成されている集団でいたら、それこそ時間の無駄だったりします。自分の価値基準と違いすぎて理解し合えそうにない集団なら、無理に相手のペースに合わせなくても良いと思います。

何らかのグループに属していると、一時的な安心感は得られるかもしれません。しかしそれは決して安定したモノでも無く、約束されたモノではないのです。もっと自由で良いのです。

グループから少しでも離れると一瞬にして『ぼっち』になってしまう。そう考える方もいるかもしれません。しかし、それは本当に悪いことなのでしょうか。

一人で食事をしたら負け組。一人でクリスマスを過ごしたら負け組。何らかのグループに属さないと負け組。違いますからね。その考え方自体が負け組なのです。
自分の心に嘘をついてまで誰かとつるまなければなら負け組とされるなら、僕は負け組で良いです。自分から負け組に入ります。何故なら、そっちの方が幸せですから。

そもそも人生に『勝ち組』とか『負け組』とか、そんな事を考える必要性さえないのです。そういう優劣の問題ではなく大切なのは如何にして自分の人生の質(QOL)を高めるかなのです。

『ぼっち』というと、何時でも何処でも常に孤独で誰にも相手にされず協調性も無く寂しい人生を歩むのみの人、と思っているなら大間違いです。

『ぼっち』は1人で行動します。
でも、人間が嫌いと言っているわけではないのです。少なくとも、現時点で属すに値するグループが無いだけなのです。現時点で、つるむ相手がいないだけなのです。

そして『協調性』という言葉も改めて考えた方が良いです。
協調性と言うのは八方美人の事ではありません。誰かに媚びる事でもありません。相手を支配することでもありません。慣れ合いでもありません。違った環境の人が、違った立場の人が、何らかの同じ方向性に向かって支え合い、助け合い、譲り合い、前に進んでいく事です。

だから、考え方が1つでは無くても良いのです。常に一緒で無くても良いのです。お互いを理解しあうためには時にはぶつかっても良いのです。どうしても、ぶつかりあって、それが憎悪になるのなら、そこから敢えて離れる選択をしても決して協調性が無いと言う事ではないのです。

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『ぼっち』と『ひきこもり』

『ひきこもり』や『不登校』も社会悪のように考える人が多いですが、『ぼっち』同様、彼らを否定するのは止めた方が良いです。

ひきこもるにはひきこもる理由があるのです。不登校にも不登校の理由があるのです。もし、自分を取り巻く環境が、ドキドキワクワクしてキラキラしていたら、誰もひきこもりませんし、学校に行かない事もありません。むしろ、どんどん外に出たくなりますし、学校に率先して行きたくなると思います。