崇拝する対象 〜自分を崇拝する事と自分以外を崇拝する事〜

自分を崇拝するという事は、魂の住人である貴方を100%認めて愛する事を意味しています。

現在地球上には数千以上もの宗教が存在していると言われています。偶像崇拝や個人崇拝、またはそのどちらの崇拝をも禁止していたりと様々です。

古来から宗教は生活の一部であり、伝統やしきたり等、人々を繋げる礼儀や作法を伝える”教科書”として用いられてきましたが、最近では”教え”が更に複雑化されてゆき、本来あった目的から随分ズレてしまっています。

 

では、本来あるべく宗教の形とは一体どういった形なのでしょうか?

それまで送ってきた人生を一時的に消去して輪廻転生してやってくる私達は、魂の世界で得た知識も物質界へ持ち込む事は出来ません(波動が低いため)。というのも、これらの”知識”が、物質界の目的である心の成長の妨げとなってしまうからなのです。

しかし、物質界に来たはいいけれど、何から手をつけてよいか分からない。そこで物質界で迷子にならないように、人間性について分かり易く説明された”教科書(宗教)”が出来上がったというわけなのです。

本来宗教とは、魂の世界である天国を地球に降ろしてくる事を目的としています。”大いなる全て”の延長線上に存在する私達は、神の一部です。ですから自分以外の誰か、例えば神様をこさえて崇拝するのではなく、神の延長上にある”自分自身”を崇拝する事、これが本来あるべく宗教の形だというわけなのです。

キリストや釈迦は神として崇められる事を決して望んでいたわけではありません。それよりも”真実”は自分の中にあるという事、この事を最初に伝えた人達がたまたまキリストや釈迦であったというだけで、彼等もまた私達と同じ”人間”なのです。

 

宗教には”規定”や”規則”は存在していません。

1日3度お祈りをあげないといけないだとか、神に近づく為に滝行を行わないといけないだとか、壷を購入しないと駄目だとかは、全て人工的に後付けされた事柄です。

本来宗教には規定や規則は存在しません。

勿論、動物性の油を摂取しすぎると、脳波が乱れて思考が定まらなくなるので菜食の方がより思考をコントロールし易い、といった事はあるでしょう。

しかし”これじゃなくては駄目”、といった絶対的な事は決して無くベーコンやハンバーグを食べ続けていてもちゃんと波動を上げる事が出来るし、菜食主義者でもイライラやストレスから解放されるわけでは無いのです。

 

自分自身を崇拝する事とは……

自分を崇拝するという事は、魂の住人である貴方を100%認めて愛する事を意味しています。

魂の世界からやってきた貴方は、自分自身を愛する事は極自然な事であり、出来て当たり前なのです。ところが物質界ではそれを”自己中心的”と見なす風潮があり、大体5歳くらいになると、自分以外に焦点を当てるようになって周りに気を使い始めます。

そうなるとあとは、ミニチュアの大人の世界が形成され、一番重要である貴方の”心”を見てみないふりをする事を学び、やがては”心”に何があるのかさえも分からなくなってゆきます。こうして心がお留守な状態を維持する事で、今の社会が形成されてきたというわけなのです。

そもそも自分以外の人をコントロールする事は出来ません。例え自分の子供でも親でも恋人でも双子でも不可能なのです。しかし、唯一可能なのは自分自身のコントロールです。貴方の心を意図的にコントロールして、意図的にポジティブ側へと戻してあげる事、これを学ぶ事で、幸せな世界を引寄せる事が出来ます。

 

自分以外を崇拝する事とは……

自分以外を崇拝するという事は、自分の”力”を他の誰かに託す事を意味しています。

他に託すという事は、責任を自分以外に置くので、責任逃れをする為の理由や言い訳を作り出すようになります。言い訳を作るという事は、貴方に無い物にフォーカスする事でもあるので、おのずとネガティブな体験を導きます。

ネガティブな体験をしても、責任は他にあると考えるので、何度も何度も同じような事が繰り返されます。このようにしてネガティブな螺旋は形成され強化され、どんどん大きく複雑化されてゆくというわけなのです。

前回の記事はこちら:
死に対する偏見 〜新たな可能性を広げるためのプロセス〜