みんな何だってできるし、いつでもあらゆる可能性に満ち溢れています。 日々の瞑想を通して、その感覚を開いて地上に楽園をもたらしましょう!

日々の瞑想をしっかり行ってください。 瞑想は実践がすべてです。
みんな何だってできるし、いつでもあらゆる可能性に満ち溢れています。 日々の瞑想を通して、その感覚を開いて地上に楽園をもたらしましょう!

僕たちの意識は生まれる前はどこにあったのか。
そして『死』を迎えた瞬間、今自分だと認識している『私』は一体どこに行ってしまうんだろう……。

そんなことを漠然と想い描きながら、幼少の頃過ごしていた時のことを思い出しました。

死は肉体が滅びることだと言うことは、子供ながらに理解はしていたつもりでも、自分という意識そのものがなくなってしまうことは信じがたいことでした。
この質問に父は『死んだら何もかもなくなるんだよ! 死んだら”無”!』と精神世界を全く信じていない父親らしい返答をくれたことを覚えています。
今思えばある意味究極の真実を伝えてくれていましたけど!……笑

意識そのものがなくなることはないんだと感覚的に捉えてからは、じゃあ人間の死は肉体だけで、意識はそのまま残り、それは永遠になくなることはないんだな……どこかで腑に落ちたんですね。

そうするとその永遠の意識に対しての恐れが上がってきました。
永遠の感覚が、頭の理解を遥かに超え、認識、コントロールの届かない領域であることを漠然と悟ったからです。
それはもしかすると、あまりにも素晴らしくなってしまうことへの恐れだったのかもしれません。

 

我々は元々意識体としては万能な存在で不可能が理解できません。

ですから、できないこと、うまくいかないこと、そのことによる悩み、苦しみという感覚は、かつては未体験の領域でした。
波動を落とし未知の体験をするために肉体に宿る選択をしたはずが、意識体であった感覚から遠く離れてしまい記憶喪失に陥ってしまったのでしょう。

この現象界で体験を通して遊んでいるうちに、あまりにも遊びに夢中になってしまい、想念によって映し出された幻の世界に自我が没入して、これこそがリアルな世界であるという誤った認識が芽生え、それが集団想念を形成してしまうことで、想念の厚い層に覆われてしまい光が届かなくなってしまったのです。
今では『自分』の事をとてもちっぽけな存在として意識しているのではないでしょうか。
これが今の我々の認識なのかもしれません。

元々は存在すらしていなかった想念の世界を自ら創り出し、現象界と4次元の想念世界を輪廻という形で行きつ戻りつしているのでしょう。
いろんな体験をしに遊びに来たら迷子になっちゃって、どうやって帰ったら良いのかわからなくなっちゃたんですね。

我々は本来無限の可能性に満ち溢れていて、すべてを創り出せる万能な存在なのです。

 

今は目覚めの時を迎えました。

昨年の夏至からの流れですね。
本格的なスタートは先日の春分の日でした。