出雲神で一番小さくても努力家!? 身体は小さくても心は大きい努力の神☆少彦名神4

私が行きたくない場所、それは粟島神社の麓にある御岩宮祠と静の岩屋。

何度か行ってみようかと思い、この案内看板の場所までは行くものの、そこから先は足が竦んで行けなかったのです。

(今日は行けるかしら……。)

足が竦むその理由も解らず、本能で拒否するとでもいうのでしょうか、行ったら知りたくない何かを知ってしまう気がしたからなのです。

(恐い事が起こりませんように~!)

あまり恐がることは無い私ですが、この底知れぬ恐怖感がなんであるのか、その理由を知る事が怖かったのでしょう。

(そういえば、この感覚は昔も感じたことがある……。)

御岩宮祠へと向かいながら、感じる恐怖は初めて揖夜神社の写真をネットで見て、それでも必要だから参拝せねばと向かった時に似ていると思い出しました。
揖夜神社は黄泉の入り口の1つ。無数に立てられた御幣が黄泉の世界からにゅう~っと伸びた白い女性の手のように視えて恐かったのです。

(でも、実際参拝してみるとそうでもなかったんだよな。すごく清浄な場所だった……。)

当時の私は、まだ自分の前世の事も良く知らず、それに触れる出来事から出来るだけ避けて生きたいと思っていたからでしょう。その記憶に触れてしまうともう普通の人生には戻れなくなる、そんな恐怖を感じていたからかもしれません。

(でもなぁ、その恐怖に負けて避けている限りは、人生は思うようにはならないし、間違っているから不幸の連続なんだよなぁ……。)

 

避ければ避けるほど、当時の私の人生はどん詰まりました。

挙げるなら、収入が半分以下になったり、思わぬ争いに知らぬうちに巻き込まれていたり、結婚を考えていた人と別れたりなど……。
当時は成りたい職業もありましたが、それも上手くは行かず、もういっかと手放してスピリチュアルな世界へと入り、驚くほど順調に仕事が進んでいったのでビクビクしていた頃でもありました。

(そうなんだよな~、不幸の連続は間違っているからそっちじゃないよと教えてくれているだけで、不幸ではないんだよなぁ。むしろ幸運。止めてもらえてるんだから。)

人は、産まれる前に決めた青写真通りに進む内は人生は驚くほどスムーズで、けれどそれから反れるとトラブルが次々と警告のように起こるものなのかもしれません。

(我慢には期限が無くて、忍耐には期限がある。
越えていい壁は透明で先が観えて、越えてはいけない壁は先が観えない。
壁に思えるけど、透明な壁は上へと上る階段、不透明な壁は下へと下る階段。もう行くべきところではないから、より下へと下る階段は幅広くなり、それを人は見上げて高いと感じるけど、その高さは下へと行かぬように防ぐ為なのよね。
反対に上へと上がる階段の幅は狭く、ひょいっと乗り越えられるのに乗り越えられないと思い込んで、その小さな高さの前で足を竦める。
人って、苦労して越えた先に幸せがあると思い込んでいるけど、それって必要な努力をせなばならない時、人として成長する時、そして、間違ってしまった時に引き返す時なのにね。)

この先には恐い事が待っているのではなく、私にとって観たくない知りたくないと思い込んでいる出来事を思い出す場所があるのでしょう。

『大丈夫、今の君ならそれを受け止められるから……。』

そよ風と共に耳元へ囁くように聴こえた少彦名神の声に頷き、歩みを早める私なのでした。

 

続く。

 

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