『私とは、「考える私」と「感じる私」で構成されています。
「感じる私」はプレゼンスと呼ばれているものです。そのプレゼンスを発見することが瞑想です。』
「私」になるってどういうこと?
すでに、私は私のはずと誰もが思っています。
ですが、この「私」の奥深くに隠れている「私」がいます。
表面の「私」と、その奥に隠れている「私」がいるのです。
表面の「私」は、名前があり、肩書きがあり、会社やグループに属している私で、身体と顔を持っています。
その奥に隠れているもう一人の「私」は、姿はありません。
名前も、肩書きも、会社にもグループにも属していません。
誰にでも、このもう一人の「私」がいます。
表面の「私」は、あれこれ「考える私」です。
奥深くの「私」は、考えることをしません。
考えというもの自体が存在していません。
どれだけ頑張ってみても、考えることは不可能で、「感じることだけができる「私」だけがあります。
私とは、「考える私」と「感じる私」で構成されています。
「感じる私」はプレゼンスと呼ばれているものです。
そのプレゼンスを発見することが瞑想です。
『私たちはあらゆる感情を体験するために生まれてきています』
「感じる私」は、あるがままにここにあるものを感じています。
あるがままに感じるとは、ジャッジもコメントもせずに、
感情も起こさずに、ただそのものを感じている状態です。
この「感じる私」がプレゼンスです。
一方、「考える私」は、感じたものにあれこれ考えを生み出します。
私とは、二重構造になっているのです。
そして多くの場合、「表面の考える私」が、前面に出た状態で私たちは生きています。
「奥に隠れている感じる私」に気づくことなく生きることもできるのです。
プレゼンスと共に在るということは、
「奥に隠れている感じる私」と「表面の考える私」が溶け合う状態です。
あれこれ考えていることに気がつくと同時に、感じていることに意識を向けている状態です。
私たちが生まれてきたのは、「私」を体験するためです。
この世界は、私なしに体験することはできません。
私は、世界に対してどんな考えを持っているのか? どんな風に対応するのか?
どんな風に感じるのか?何が好きで、何が苦手なのか?
「私」なしに世界を体験することはできません。
毎日、あれこれ現れる考えも感情も、「私」を知る手がかりになります。
「私」とは、自分の中に溢れ出てくるものを指しています。
考えや感情にとりつかれる時、私たちはプレゼンスを見失ってしまいます。
考えや感情があっても、内側に意識を向ければ、そこにプレゼンスが存在します。
私たちはあらゆる感情を体験するために生まれてきています。
感情に流されたり翻弄するためではなく、
感情をマスターするために生まれてきています。
自分が、何に対しどんな感情を生み出すのか? どんな反応をするのか?
プレゼンスから観察すると、表面の私の中にあるものが見えてきます。
感情を隠したり押し込んだりするのではなく、
どんな感情も体験して、それを越えていくためです。
感情をマスターするとそこから、反応の選択ができるようになります。
反応が選択できるようになると、新たな人生を創造することができるようになります。
私たちはあらゆる感情を体験するために生まれてきています。
感情をマスターするために生まれてきています。
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