生きることの意味がわからなくなった時〜自分の心が見えない時にすること〜

自分は、本当は何がしたいのか? 自分の喜びはなんだろう? 自分にとって大事なものはなんだろう?

〜身の回りがすっきりして、何にもなくなると、
そこにあるのは自分の心だけです。〜

私は一体何がしたいのだろう?
毎日の忙しさに翻弄される時、ふと立ち止まって、私にとって大切なものってなんだろう?
と、わからなくなることがありませんか?

これは自分にとってとても大切なもの!

そう思ってやってきたはずなのに、本当にそうなのかしら? と、疑問に思うことがあります。
そんな時、私が最初にすることは身の回りを片付けることです。

いつか読もうと積み重ねた本やDVD……。
そのうちやろうと思いながら机の周りに散らばっているもの。
見るたびに思考が拡散されるものが、周りにたくさんありませんか?
いろいろなものに思考が拡散されていくと、
何もできていない自分自身に、ジャッジがされ始めます。

周りの諸々を片付けていくと、
心が見え始めてきます。
後回しにしてきたものは、本当はいらないものかもしれません。
いつか聞こうと思っていたCDも、
いつか読もうと思っていた書類も、
できていない自分に罰を与える思考を生み出す要素になっているのなら、
一度手放してみることをお勧めします。

身の回りがすっきりして、何にもなくなると、
そこにあるのは自分の心だけです。

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〜持ち物の数だけ、それに対する思考があり、それも同時に持っています。〜

自分の持ち物と自分自身とは、一つ一つエネルギーの糸でつながっています。
持ち物の数だけ、それに対する思考があり、それも同時に持っています。

あれ、読まなくちゃなあ。
それも早くやらなくちゃな。
あれはいらないのだけど、どうしようか?
これをまとめなくちゃならない。
これの置き場に困るなあ。
これはまだ捨てられないし……。

私たちは、ものの数だけ思考を持っています。
大きな思考の荷物を持って歩くのは大変です。
実際、思考を山のように持っている人は重そうに感じます。
思考を手放したかったら、物を手放すことが簡単です。
物がなくなればそのものに対する思考は生まれません。
シンプルな暮らし方は、自分の心が見える暮らし方と言えるのかもしれません。
身の回りがすっきりして、何にもなくなると、
そこにあるのは自分の心だけです。
私たちは、持ち物の数だけ、それに対する思考があり、それも同時に持っているからです。

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〜私たちは、一体どれだけの顔を持っているのでしょうか?〜

誰かとの関係がギクシャクして居心地が良くないと感じるなら距離を置いてみます。
精算されていない感情があるまま関わっていると、その人に対してさらに新たな思考が生み出されてしまいます。
第一、うまくやっていかなければならないという思考は疲れます。

私たちはいつもたくさんの自分を体験しています。
自分の立場ごとに違う自分がいます。
子供に対してはお母さんとして、
パートナーに対しては妻として、
友人に対しては友人として、
同じ地区の人に対しては町内会の人として、
隣の人に対しては隣人として、
会社の社長さんに対しては社員として、
一緒に働く人に対しては同僚として、
PTAでは保護者として、
お店ではお客さんとして……。
一体どれだけの顔を持っているのでしょうか?
ありすぎると使い分けが大変です。
また、使い分けをするのは疲れます。
いろいろな自分を演じているうちに自分がわからなくなってきます。

人間関係が難しいと感じたり、
関わることが面倒と感じるのは、
無理をしている自分がいるからです。
こうであるべきという自分を演じているからです。
演じない自分しかなかったなら、余計な仮面を持っている必要はありません。
私たちは、一体どれだけの顔を持っているのでしょうか?