樹木が教えてくれること〜伝統建築と現代建築の違いにみる自然の叡智

塔の北には北の斜面で育った木を使い、塔の南には南の斜面で育った木を使う。 自然界そのままを、いかにここに再現するかを大切に進められたそうです。

<自然は叡智そのものです。>

自然から学ぶことは奥が深いなといつも思います。
樹木は私たちの人生をはるかに超えて命を全うします。
樹齢1000年を越えるというのは、どれだけの歴史を眺めてきたのか?
どんな思いで世界の移り変わりを体験したのだろうかと、思いを馳せると思わず木に敬礼したくなります。

薬師寺西塔の再建の際は、樹齢の高い木々が選ばれたそうです。
樹木を見ると、南の斜面、北の斜面に生えている同じ種類の木は、その姿形に大きな違いはありません。

ですが、外側の姿が同じに見えてもその内部には長い年月、南の斜面に生きた樹木には南の斜面での記憶があり、北の斜面に生きた樹木には北の斜面での記憶があり、目には見えないけれど内側のエネルギーが異なっています。

だから、塔の北には北の斜面で育った木を使い、塔の南には南の斜面で育った木を使う。
自然界そのままを、いかにここに再現するかを大切に進められたそうです。

 

日本の伝統建築は、現代の建築と全く異なる考え方をしています。

現代の建築は、もしも真四角の建物を建てるなら、すべて同じ大きさにしてきっちりと合わせていく。
釘を使って、パズルのようにしっかり合わせていく。
ところが、日本の伝統建築は1本の釘も使わず、木のそれぞれの性質を合わせていくことで組み立てていく。
右にねじれている木と左にねじれていく木を合わせることで、木自身の力でお互いに支えあっていくのだと。

現代建築は、建ててすぐはきっちりと建っていて歪みはない。ところが時とともにずれや反りが現れ、古くなればなるほど歪みが出る。

日本の伝統建築は、建ててすぐは歪みがあってきっちりしていない。ところが時とともに互いが支え合うようになり、古くなればなるほど強度を増していく。
釘1本使わずに数千年建ち続けることが可能となります。

現代建築が、まったく同じ大きさと厚さの部品で構成されているのに対し、日本の古代建築は、ひとひとつの部品がすべて大きさも厚さも違うものを組み合わせているのです。

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まったく反対の在り方が、古代の建築と現代の建築です。

古代建築は、木の性質を知り尽くしてこそ成り立ち、自然の在り様をそのまま建物に生かし、自然界を建物に移し替えていくことを大事にします。
そして現代建築は、南の斜面の木も北の斜面の木も同じ木として扱い、木を建築の部品として見て、すべて同じ大きさに揃えていきます。ここでは自然界の在り様を建物に移し替えるのではなく、木を自然素材の部品として捉えていきます。

木の方位のままに建物に移し替えて生かしていく古代建築は、時とともに美しさを増していくのに対し、現代建築は建ってすぐが最も美しく、その後は時とともに崩れていきます。現代建築が建って25年で資産価値はゼロになるのは悲しいことです。

日本には古来から素晴らしい考え方で建物が生み出されていたことを、とても嬉しく思います。樹齢古都などで私たちに感動を与えてくれるのはこうした建物です。

いつからか私達は自然界を建物に移し替えていくことを忘れ、いかに早く、いかに効率良く物事を進めていくかを最重要にしてしまったようです。
そうした建物は、時とともにメンテナンスが増え、美しさも強度も失うというのに、目先のことにだけ目を向けるようになってしまったようです。

木のクセをできるだけとって部材を作ろうとしても、やはり時とともに木が内側に抱えているクセは現れていく。それならば、初めからそのクセを建築に生かして行こうとする古代の建築は、人間社会に通じるものがあると感じます。

学校や社会などの共同体で、出来るだけ個性をしまいこんで全体に合わせて行こうとする現代の生き方は息苦しいものです。本来誰もが、それぞれの個性を生かして適材適所に配置することで、個性が全体に役に立つ在り方を望んでいると思います。

古代建築が教えてくれるのは、様々な個性が全く異なる個性を受け入れることで、強く揺るぎない固さが生まれ、その姿は美そのものであるということ。
私たちも互いの違いを受け入れながら、それが信頼で結ばれた関係となり、人生を美しいものにして生きたい。

この塔のように、一つも同じ部品がなく、少しずつ違うもの同士が結びつくことで、全体美が生み出されるように生きていきたい。

自然は叡智そのものです。
この建物から自然の叡智が溢れ出ています。

 

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