≪「味方になる」という考え方 ≫
これまで、「利他的自己実現」を果たすうえで大事なことについて述べてきました。
自分の人生をコントロールしようともがいて成し遂げる利己的自己実現の方法ではなく、自分自身が心から喜びを感じられることを行うことが、関わる人々の助けにもなるという「利他的自己実現」の生き方をしていくためのヒントについて書いています。
さまざまな角度から「利他的自己実現」において大切なことを取り上げてきましたが、今回はその一つである、「味方はいらない」ということについて述べてみたいと思います。
昔から、自己の幸福のために「味方を増やす」とか「味方になってもらう」といった考え方があるようですが、子どもの頃から不思議だなと思っていました。
女の子たちの、「わたしはAちゃんの味方だからね」という発言には違和感を覚えましたし、仲の良い友人にそのように言われても嬉しいと感じたことはありませんでした。
なぜなら「味方」という考えには、「敵」という観念もあることが暗に示されているからです。そうでなければ、わざわざ「味方になる」という表現が生まれてくることはありません。
わたしのことは「味方」だと思っていても、誰かのことは「敵」だと思っているのだろうか。そうだとしたら、そんなふうに人を見ることは悲しい。
子どもの頃、そのような感覚を持っていました。
幼い子どもや学生たちの使う「味方」という言葉には、「いつでも支えになるよ!」という励ましの気持ちが表れているだけのときもあるだろうと思いますが、この「味方」という発想には「敵」という観念が含まれているのと同時に、「条件」というものがあることも示唆されているように思います。
≪「味方」になってもらえる「条件」≫
「わたしはあなたの(敵ではなく)味方だからね」というメッセージには、何かしらの「条件」が存在していることが感じ取れます。
今のところ、わたしにとっての条件をあなたはクリアしているから「味方」。でも、もしその条件に合わなくなれば「敵」。
意識的にこのような思いを抱いていなかったとしても、敵視せずに「味方」する理由が何かあるはずです。
それはたとえば、「この人はいい人だから」、「この人は信頼できるから」といった理由かもしれませんが、突き詰めてみれば、「いい人」だとか「信頼できる」、「好感が持てる」などといった見方は、結局のところ、「自分にとって好都合」だという意味でしかないのです。
「味方」になるかどうかを考えるとき、おそらく「無条件で」というわけにはいかないことでしょう。
「味方」というのは「自分の属する方」ということであって、一種の「仲間意識」があることを示しています。ということは、属しているかどうか、仲間として認められるかどうかという「条件」があるはずなのです。
自己の幸福のために「味方を増やす」とか「味方になってもらう」ことが適切だという考えを持っている人のやることは、つまり、気に入ってもらいたい相手にとっての「味方する条件」に沿うことです。
「味方になってもらう」というのは、「条件付きの関係性を築く」ということだと言えます。これは非常に滑稽なことではないでしょうか。