≪「直感」と「正解」は別のもの ≫
前回の記事で「直感」と「正解」は別のものだと述べ、「正解」ではなく「すでにある答え」を選ぶことが大切であり、「直感」とはその「すでにある答え」にたどりつくためのサインなのだという内容について触れました。今回はさらにこのことについて深めていきたいと思います。
どのようなことであれ何かを選ぶ場面では、「直感」などの、ハイヤーセルフ(高次の自己)がもたらしてくれたしるし(ガイダンス)に従って選べばよいので、本当はわたしたちには「迷う」必要などありません。
導きは瞬時に、そして常時もたらされるものであり、そこに耳を傾ける(それを受け取る)思いがあるならば「わからない」ということは起こり得ないのですが、よく「直感がわからない」という声を耳にすることがあるので、掘り下げてみたいと思います。
前回述べましたが、「直感」と「正解」は同じではないので、もし「直感がわからない」のだとしたら、「正解」を求めているのだと思います。両方を同時に求めることはできないからです。「正解」とはエゴの期待する答え(ファンタジー)であり、「直感」とはエゴではなくハイヤーセルフからの贈り物なのです。
≪「直感がわからない」理由 ≫
どちらを求めてもそれは自由ですが、「直感」(ガイダンス)を心から求めるならばすぐにそれがわかり、「正解」を求めるならば、それは実際には存在しないものなので見つからず(「直感がわからない」という状態になるので)、自分にとって都合のよい答えをこじつけでもなんでもして「自分で」用意することになります。そしてその見せかけの「正解」に遅かれ早かれ欠落を見、落胆することになるのは明らかです。
つまり「直感がわからない」のではなく、「直感より正解がほしい」ということであり、実のところはガイダンスを受け取る気がまるでないということなのです。
ガイダンスは拒否しなければ24時間365日受け取り続けることができます。そしてそれはエゴにとって非常につまらないものであり、これを拒絶、無視するためなら何でもします。真に幸福になることを求めているふりをして、実は逆走することを目論んでいるのですから。
また、「直感」を受け取る能力がないという人もいますが、能力がない人などいません。怖れより愛を選ぶことに正直になってさえいれば、愛を拒絶しなければ、いくらでもガイダンスを受け取ることができます。
「すでにある答え」は愛に基づいたものですが、それでもわたしたちはその答えより「正解」(=快楽そのものや失敗がなく有頂天になれる道)を、つまり「痛み」(傷つかなくて済む道が知りたいという、すでに心に痛みを持った思い、怖れそのもの)を選んでしまうことが多々あります。