その声は森の中から聞こえてきた。
「誰か 誰か 助けて」
お付きの者二人を従えた武将は、その声が従者二人には聞こえぬ心の声であると察知すると「暫し、待たれよ。休んでいて良い。」
従者を残して獣道に分け入って行った。
従者二人はそういった武将の行動に慣れている様子で、高い日差しを避けて馬を降り、若い主人を木陰で待つ。遠目に主人が向かった藪の上、低く飛ぶムクドリの数羽が舞うように遠ざかるのを見つけると、「もうあそこまで進まれたか」と、鳥に案内されるのを承知の程で主人の位置を確認した会話を和やかに交わす。
その従者の会話のとうり、潅木の藪の中程を進む武将は頭上に響く「こっち こっち」
と鳴くムクドリたちの心の声にせかされながら、
「たすけて 助けて」だんだんに弱まる助けを呼ぶモノの心の声に近づきつつあった。
馬だ。仔馬が浅い窪みに落ちて這い上がれずにいた。
「たすけて」の心の声を発していたのがその仔馬だと分かると、武将は自らの装備を脱ぎ、帯布を頑丈そうな幹に結わえ、仔馬を引き上げようと考えた。
「心配ない。静かにしておれ。」
武将は馬の扱いに慣れた上に、馬に自分の気持ちを伝える事が可能だ。馬だけでは無い。いくばくかの生き物とは意思の疎通が可能なのだ。今もムクドリに心の会話で案内を頼み、この場所にたどり着いた。
潅木の幹に帯を一巻きして、武将は春にしては軽装で帯布を二枚しか身に付けていなかった事に気づいた。仔馬の体に掛けて引き上げるには長さが足りない。そう思った瞬間、武将の目の前に、帯布が女の手で差し出されていた。
普通ならば武将は、女のタイミング良すぎる出現や野山にふさわしくない風体に驚くべきなのだろうが、三本を結んで長くした帯布で即座に仔馬を救い出し、そこで初めて
「ありがたいことであった」と礼を言った。
武将は長身で装備は成人の風体ではあるが14~15歳、女はわずかながら年上か。女は潅木の茂る藪を徒歩で来たとは思えない傷一つも無い手足に、息の乱れも汗一つも額に滲ませる事なく佇んでいた。
……帯布の長さが足りて、無事仔馬を救い出したまでは良いが、仔馬はまだ親が必要な幼さだ。母馬は何処だ。武将の考えを読み取ったのか、女は仔馬を前にして目を閉じた。武将も目を閉じ、母馬の意識を捜す。程なくして蹄が土を蹴る音が近づく。
母親か。
春の午後の光の中、どっしりとした肢体と線の細い小柄な肢体は二人に礼を述べるかのように馬体の首を上下にゆさゆさと振り、踵を返すと獣道の奥に去った。
そのとき一陣の風がそよいだ。
帯布を二枚とも外したままだった武将の衣装がはだけ、痩せぎすながらも引き締まった胸板が晒された。
女は穏やかな下目使いの目線のまま仔馬を助け終えた帯紐を幹から解くと、二本を武将に差し出した。武将は受け取った帯布で慌てて装備を整える。女も自分が身につけていた帯布を装備しなおす。
そのときまた風が吹いたが、女の衣装は風に弄ばれる事無く、元々どこから外したのか不思議なくらい帯布は衣装の中へするすると戻された。
この二人は生き物と思いを通わせる力があるがゆえ、助けを求める仔馬の心の声に呼ばれてここに来たのだ。それぞれ人には無い力を持って生きた分、老成した落ち着きと優しさを瞳に宿していた。
これが坂東(今の関東)での、平将門と薬葉の出逢い。
薬葉(くすは)は元は大陸伝来の陰陽道や道教にも通じた古社の神職の娘で、神降ろしの神籬(ひもろぎ)として生きていたが、暴徒によって陵辱を受けたと疑われ、社を追われた過去を持つ。旅巫女として薬草で病を直したり妙見菩薩の加護を祈祷していた。
平小次郎将門は兄と領主だった父を親族により暗殺され、早めに元服を済ませ、弟達を守るため家督を継いだばかりであった。しかし京の都に警護の役で上る大義名分の下、下総(今の千葉や茨城)の領地から引き離される過酷な春を迎えていた。
将門17歳の時、薬葉との間に男の子が生まれる。
一門の大将を表す名『将門』の子にふさわしい、一国の大将『将国』。
後に同音異字の『正国』に改めるが、その名で知られる事はない。
後の安倍晴明だ。
この時代、御所の護衛役には非番(休暇)が月交代にあり、将門は京で仕えていた藤原忠平の特別な計らいもあって何度も京と下総を行き来している。
歴史や伝記物語に記録は無いが、陸路だけでなく船なども使えば、女性がいても片道6日。女子供は里に残されるよりも、あるじと行動を共にするかきちんとした屋敷に住まうほうが安全な時代だ。
将門に従って坂東を離れている時の薬葉は、危険が多い京の都には入らず、母方の祖父、安倍家の摂津の離れ屋敷のある信太に住み、非番の将門が通った。そのため将国は幼少期を下総と摂津で過ごしている。
安倍晴明に茨城と大阪、二つの出身地説があるのはこのためだ。
……グラウの過去へのアクセスで、これだけのビジョンが祠に集まった眷族たちに伝えられた。
ここは浅草寺と寛永寺の中間あたり、甚六が住む稲荷の祠だ。
先だっての事件で中断していた集会が、だいぶ経って再開できたのだ。
「出会って、その次のシーンがもう数年経ってて、子供が生まれていてって……。
Dragon Ballかいな。はだけた着物のシーンがあっても何もなく着衣を直すなら要らないよねえ……そんな画面。」
「たしかに最初はロマンチックな展開だったけど、展開の時間配分変じゃない?」
狐たちの中からそんな不満が漏れてきたのを察知して、甚六は
「まあまあ、グラさん疲れると読み込む過去の時間経過が早送りになるんだ。
安倍晴明の父と母の馴れ初めは……
将門さまと薬葉さんは、真面目で優しい出逢いだったって所にアクセスしたかった……
そうだろう、なあグラさん。」
と、グラウに替わって野次馬な観衆に言い訳をした。
「ああ サンキュ」
グラウはありがたくもなさそうな表情のまま甚六に礼を言うが、そのまま再び過去の時間へのアクセスを試みる。観衆たちは静かに映像を受け取る姿勢に戻った。