地動説を唱えた偉人・コペルニクスの葛藤〜感情美人への道Vol.61

コペルニクス、教科書での扱いをもっと大きくして欲しいと思いませんか? 闘うのが戦場でなかっただけで、彼も宗教と学問のはざまで、ずっと闘っていたのです。

そして1504年7月。
水星、金星、火星、木星、土星の5つの惑星が一列に並ぶ極めて珍しい現象「惑星大集合」が起こります。これを分析すると、やっぱり火星は2度。土星は1.5度、天動説と異なっていました。

そこで、地球の周りを何層も覆っていると考えられていた惑星の通り道を一つにまとめてしまって解決しようと考えたのですが(ここではまだ天動説寄り)、またしても問題になったのは火星の軌道でした。

そこでやっとコペルニクス的転回の瞬間が訪れます。それまで地球中心に考えていた絵図を、「太陽中心」に変えたのです。そこから各惑星と太陽の距離を割り出したのですが、その値は現代と比べてもほとんど遜色ない数値でした。日柱を観測して、一年が365.2425日である事も突き止めます。

こうして地動説を確信したコペルニクスは、まだ30代。でも、この革新的な理論は、その後40年近く公にできなかったのです。なぜならちょうどこの頃「聖書が絶対である」という宗教改革が始まっていたからです。

世界史のテストでおなじみのマーチン・ルター。免罪符はおかしいんじゃないの?とか、勇気を持って立派なことを成し遂げたんですけれど、天文学者にとったらかなり面倒くさい存在だったんですよ。

ルターは、コペルニクスが友人らに送っていた地動説に関する手紙の存在を知っていました。そして「あのバカ(コペルニクスの事)は、天文学の全部を根底から覆そうとしている!」と批判しまくっていたのです。

そうは言っても、コペルニクスだって聖職者なんですよ。ここに葛藤が生まれる訳です。聖職者の自分が聖書の教えに反してもいいのだろうか?「信仰 VS 学問の信念」という人生をかけた葛藤です。

コペルニクスが60才になったころ、ローマカソリックの幹部から手紙が届きます。教会は新しい暦を作らないといけなかったのですが、そのためにはコペルニクスのデータが必要だったからです。でもデータを渡せば、自分は異端者になりかねない……。コペルニクスの葛藤は続きます。

 

そして死を間際にした70才の頃、ようやく本が出るのです。

『天球の回転について(1543)』

地動説の発表は、下手をすれば社会がひっくり返るような衝撃をもたらします。でも、当時それほど糾弾はされなかったんです。

なぜでしょう?

それは友人で神学者のアンドレアス・オジアンダーが序文をこう差し替えたからです。

「仮説(HYPO)である」

本が大きな抵抗を受けるのを避けるための、苦肉の策でした。

コペルニクスの死後、この本はヨーロッパ中に広がります。そして100年後、この本にたくさん書き込みをしていたのがガリレオ。そしてそのガリレオが近付こうとしていたのが、次回紹介するケプラーです。

コペルニクスの銅像が立つ台座には、こう書かれています。
「地球を動かし、太陽を止めた人物」

コペルニクスが偉人である理由は、大きな葛藤を打ち破り、真実を追求していった生き様にあるのです。

いかがでしょう?

コペルニクス、教科書での扱いをもっと大きくして欲しいと思いませんか? 闘うのが戦場でなかっただけで、彼も宗教と学問のはざまで、ずっと闘っていたのです。

参照:
『ヨハネス・ケプラー 近代宇宙観の夜明け』アーサー・ケストラー
NHK BS『コズミックフロントNEXT』

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(トップ画像・地動説の図、画像提供/ウィキペディア)