感情美人への道Vol.24~リスクゼロを求めない~

先週は日本人でノーベル賞受賞者が2名も出ましたね。日本人としてとても嬉しいニュースでした。ノーベル医学生理学賞を受賞された大村智先生。1985年に初めてエイズの治療薬を開発した満屋裕明(みつやひろあき)先生。何か新しい事、ゴールが見えない事に立ち向かおうとする時、挫折しそうになった時は、ぜひこの先駆者達の挑戦を振り返ってみて下さい。

Don’t wait till the risk is gone

石橋を叩いても渡れない……そういう方も多いのではないでしょうか?

もちろん予防できるリスクは限りなく0に近付けなければいけませんが、一方で予見できないリスクが怖いばかりに一歩踏み出せない人が大勢います。
この状態を考える時、素晴らしいロールモデルとなるのが、医療の分野で道を切り開いて来た偉人達です。今日はそんな偉大な日本人の研究者・医師を3名ご紹介します。

先週は日本人でノーベル賞受賞者が2名も出ましたね。日本人としてとても嬉しいニュースでした。

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ノーベル医学生理学賞を受賞された大村智先生

受賞者のお一人、ノーベル医学生理学賞を受賞された大村智先生が歩まれた道は、まさに紆余曲折でした。

大村先生は東京都墨田高等学校定時制の教員をしていた時、油で汚れたままの手で一生懸命勉強する生徒の姿を見て触発され、もう一度勉強しようと決心します。
それから東京理科大の聴講生になり、その後東京理科大の大学院へ進み、研究者の道へと舵をきりました。

36才で米国に留学していた時は「帰国しても研究費はない」と言われたので、そこでめげずに「米国で集めるしかない!」と一念発起し製薬会社を回って資金を集めた末、生まれたのが「イベルメクチン」という家畜用の抗寄生虫薬です。
この特許料は莫大で、そのうち200億円を先生は北里大の研究所に入れています。

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エイズの治療薬を開発した満屋裕明(みつやひろあき)先生

また、1985年に初めてエイズの治療薬を開発した満屋裕明(みつやひろあき)先生は、まだエイズが人類にとって未知のウィルスで感染経路も分かっていない状況で勇気を振り絞って薬の開発に取りかかります。

感染を恐れる他の研究者に配慮して、夜、皆が帰った8時頃から夜中の2時3時までたった一人で未知のウィルスと向かい合いました。

「開発が遅れれば、それだけ苦しむ患者が増える。誰かがやらなければ!」という使命で、突き動かされていたそうです。

結果、スラミンという物質の治験を経て、AZT(アジドチミジン)、更に改良を重ねDDI、DDCという薬も開発され、エイズは死を待つだけの病ではなくなりました。
薬のおかげでアフリカでのエイズ患者の死亡者数は過去6年で1/3まで減り、そして今は、20才で感染しても40〜50年生存可能な場合もあり子供も産めるようになったのです。

でも最初の段階で、満屋先生が「感染のリスクが完全に0になるまで研究に着手しない」というタイプの研究者だったら、エイズの薬の登場はその後何年も遅れ多くの患者が苦しんだ事でしょう。

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新薬開発の成功確立は、『100万分の1』と言われます。

これほど絶望的な数字はあるでしょうか。この数字を突きつけられた時、時間やお金のリスクを背負って挑戦できる人はどれ程いるでしょう。

昔を遡れば、日本には華岡青洲(はなおかせいしゅう)という、世界で初めて全身麻酔で乳がん手術を成功させた医者がいます。西洋で全身麻酔の手術が行われたのは1864年。青洲の手術はそれを遡ること40年も前です。

青洲が払った犠牲も甚大でした。麻酔薬の実験によって母を失い、妻は視力を失います。(彼女達は自ら進んで実験に協力したと言われています)

彼らの挑戦に比べて、今自分が挑戦しようとしている事は何と安全で安穏としたものでしょう。自分がリスクと捉えているのは、本当にリスクと呼べるものなのでしょうか?

何か新しい事、ゴールが見えない事に立ち向かおうとする時、挫折しそうになった時は、ぜひ今日ご紹介したような医療分野の先駆者達の挑戦を振り返ってみて下さいね。

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前回の記事はコチラ:
感情美人への道Vol.23~弱者を前にした時、人の本質が表れる~