聖職者

瀬戸内寂聴(日本)

Jyakucho Setouchi

天台宗の僧侶。1997年文化功労者、2006年文化勲章。

徳島県の仏壇店を営む三谷家の次女として生まれ、後に従祖母の家である瀬戸内家の養子となる。

東京女子大学中に結婚。夫の任地である北京に同行すると、1946年の帰国後、夫の教え子と恋に落ち家を出る。大翠書院などに勤めながら初めての小説「ピグマリオンの恋」を投稿する。

1950年に正式な離婚をし、本格的に小説家を目指して三谷晴美のペンネームで活動を開始、

1956年に処女作「痛い靴」を『文学者』に発表し、同年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。

その受賞第一作である「花芯」は、ポルノ小説であるとの批判にされされ、「子宮作家」と呼ばれるようになったことで、文学雑誌ではなく大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。

1963年には自身の不倫恋愛体験を描いた『夏の終わり』で女流文学賞を受賞し作家としての地位を確立する。以後数多くの恋愛小説・伝記小説を各人気作家となる。『源氏物語』の現代語訳でもその名を知られている。

1973年に、中尊寺にて天台宗で得度、法名を寂聴とし、翌年には比叡山で60日間の行を経て京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。尼僧としても、週末には青空説法などを行うなど、積極的に活動する。

麻薬で逮捕された萩原健一の更生に尽くしたことで知られている。

1998年に出した『寂聴 般若心経』は、1年で43万部を売るベストセラーとなる。
主な著書・共著 (近年)

「日本を、信じる」  ドナルド・キーン共著 中央公論新社 (2012年)
「生ききる。」 梅原猛共著  角川ONEテーマ新書(2011年)
「わくわくどきどき」  幻冬社 (2010年)
「寂聴あおぞら説法4」 光文社 (2008年)
「秘花(世阿弥)」 新潮社 (2007年)
「寂聴あおぞら説法3」 光文社 ( 2005年)
「千年の京から「憲法九条」-私たちの生きてきた時代- 」 鶴見俊輔共著  かもがわ出版  (2005年)
「同時代を生きて―忘れえぬ人びと― 」 鶴見俊輔・ドナルド・キーン共著  岩波書店 ( 2004年)
「人生への恋文」  石原慎太郎共著  世界文化社 (2003)
「寂聴あおぞら説法2」  光文社 ( 2002年)
「釈迦」  新潮社 (2002年) のち文庫
「瀬戸内寂聴全集 全20巻」 新潮社 (2001-02) 解説・秋山駿
「場所(自伝小説)」新潮社 (2001年)野間文芸賞受賞 のち文庫
「いよよ華やぐ」  新潮社 (1999年) のち文庫
「寂聴あおぞら説法 」 光文社 ( 1998年)
「人生万歳」  永六輔共著  岩波書店(1998年)
「文章修業」  水上勉共著  岩波書店(1997年) のち光文社知恵の森文庫
「孤高の人」 湯浅芳子 筑摩書房 (1997年) のち文庫

 

瀬戸内寂聴の名言

・年を取るということは、人の言うことを聞かないでいいということだと思います。あとちょっとしか生きないんだからと好きなことをしたらいいんです。周りを気にして人生を狭く生きることはありません。

 

・人は所詮(しょせん)一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在です。だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ、自分自身が反抗します。

 

・学校の成績なんて気にすることはありません。何か好きなことが一つあって、それを一生懸命できるということが人生の一番の喜びなんです。
出典 地球の名言

 

「済んだことは考えるな。苦労したことをいくら思い出しても何の足しにもなりませんよ。」

「私たちは何のために生きているか。誰かを幸せにするためです。」

「つらいときはじっと我慢すること。我慢したことは必ず報われます。」

「プラスのイメージを描きましょう。絶対幸せになるぞって思うと、ほんとになの。私が見本です。」

「自分が痛いと思うことは、相手も痛いんです。 だから自分がされて嫌なことは人にしなければいいんです。」

「私たちは生きているんじゃない。生かされているんです。」

「みんな必ず死ぬんですから、生きている間は精一杯生きて、好きなものを食べて、好きなことをしましょう。」
出典 株 平凡の友社

 

 

瀬戸内寂聴の作品映画化

・女優の満島ひかりが、瀬戸内寂聴氏のロングセラー小説を鬼才・熊切和嘉監督が映画化する「夏の終り」に主演することがわかった。満島は、妻子ある不遇の作家との関係に疲れ果て、年下の男との激しい愛欲にも満たされない、自らうちに潜む女の業に苦悩する難役に挑む。

 

瀬戸内氏が、1963年に出家前の瀬戸内晴美時代に発表し女流文学賞を受賞した同名作は、自身の体験をもとに書いた私小説。66年に発売されてから、現在まで50年近くにわたり愛読され、100万部を超える発行部数を誇る。これまでに改題され「みれん」(池内淳子主演)として映画化されているが、瀬戸内氏(今作では主人公・知子)を演じた女優となると、ほかにドラマ「女の一代記」シリーズの宮沢りえ以外に例はない。
出典 映画.com

 

 

京都寂庵の活動

・写経の会

  • 事前の予約は不要です
  • 毎月1日 午前10時~午後3時まで
  • 手本・用紙・硯セットなど、全てご用意していますので、お持ちいただく物はございません。
    使い慣れた筆があれば、お持ち頂いても結構です

・法話の会

  • 事前の予約が必要です
  • 毎月第三日曜日
  • 受付:12時30分から
  • 開始:13時~13時30分(30分程、質問コーナーがあります)

出典 寂庵へようこそ

 

 

瀬戸内寂聴 略年譜

1922(大正11)年

5月15日、徳島市に指物職人三谷豊吉、コハルの次女として生れる。長女艶と二人姉妹。

1929(昭和4)年 7歳

新町尋常小学校に入学。5月、父が大伯母瀬戸内いとと養子縁組し、瀬戸内家を継ぐ。

1935(昭和10)年 13歳

徳島県立徳島高等女学校に入学。

1940(昭和15)年 18歳

東京女子大学国語専攻部に入学。

1943(昭和18)年 21歳

2月、見合結婚、入籍。9月、戦時繰上げで卒業。10月、夫の赴任地、北京に渡る。

1944(昭和19)年 22歳

8月、長女誕生。

1945(昭和20)年 23歳

8月、終戦。親子三人で非合法に北京に留まる。

1946(昭和21)年 24歳

6月、強制送還になり、徳島に引揚げる。

1948(昭和23)年 26歳

2月、京都へ出奔。大翠書院、京大付属病院小児科研究室に勤務。

1950(昭和25)年 28歳

2月、協議離婚。12月、『少女世界』に三谷晴美のペンネームで投稿した「青い花」が掲載され、初めての原稿料を得る。

1951(昭和26)年 29歳

5月、上京。童話や少女小説で生計を立てる。丹羽文雄主宰の『文学者』同人となる。その後、小田仁二郎主宰の同人雑誌『Z』に入る。

1957(昭和32)年 35歳

1月、「女子大生・曲愛玲」で第3回新潮社同人雑誌賞を受賞。10月、「花芯」を『新潮』に発表。

1959(昭和34)年 37歳

7月、『無名誌』に「田村俊子」冒頭の章を発表。翌年1月、「田村俊子」を『文学者』に連載開始。

1961(昭和36)年 39歳

4月、『田村俊子』で第1回田村俊子賞を受賞。

1962(昭和37)年 40歳

7月、「かの子撩乱」を『婦人画報』に連載開始。

10月、「夏の終り」を『新潮』に発表、「女徳」を『週刊新潮』に連載開始。

1963(昭和38)年 41歳

4月、『夏の終り』で第2回女流文学賞を受賞。

1965(昭和40)年 43歳

4月、「美は乱調にあり」を『文藝春秋』に、9月、「鬼の栖」を『文藝』に連載開始。

1966(昭和41)年 44歳

6月、「死せる湖」を『別冊文藝春秋』に発表。このころより、新聞、週刊誌、各雑誌に精力的に書く。

1967(昭和42)年 45歳

1月、自伝小説「いずこより」を『主婦の友』に連載開始。

1968(昭和43)年 46歳

4月、「遠い声」を『思想の科学』に連載開始。

1969(昭和44)年 47歳

68年からこの年にかけて発表した意欲的な短篇作品群が『蘭を焼く』(9月、講談社刊)に結実する。

1970(昭和45)年 48歳

9月、「おだやかな部屋」を『文藝』に発表。

1971(昭和46)年 49歳

1月、「余白の春」を『婦人公論』に、8月、「京まんだら」を『日本経済新聞』に、10月、「中世炎上」を『週刊朝日』に連載開始。

1972(昭和47)年 50歳

3月、『瀬戸内晴美作品集』(全8巻)を筑摩書房より刊行開始(73年5月完結)。

1973(昭和48)年 51歳

10月、『瀬戸内晴美長編選集』(全13巻)を講談社より刊行開始(74年12月完結)。11月14日、奥州平泉中尊寺で得度・受戒。法名、寂聴。

1974(昭和49)年 52歳

4月26日より60日間、比叡山横川行院にて四度加行を受く。12月、京都市嵯峨野鳥居本に寂庵を結ぶ。

1979(昭和54)年 57歳

9月、書下ろし長篇『比叡』を新潮社より刊行。

1981(昭和56)年 59歳

1月、「ここ過ぎて――白秋と三人の妻」を『新潮』に、「諧調は偽りなり」を『文藝春秋』に連載開始。

1982(昭和57)年 60歳

1月、「青鞜」を『婦人公論』に連載開始。81年に始めた二つの連載と合せ、大正時代を書き続ける。

1983(昭和58)年 61歳

2月、「私小説」を『すばる』に連載開始。

1985(昭和60)年 63歳

5月、寂庵内に修行道場、嵯峨野僧伽落慶。

1987(昭和62)年 65歳

2月、個人新聞『寂庵だより』(月刊)を創刊。5月、岩手県二戸郡浄法寺町の天台寺に住職として晋山。

1988(昭和63)年 66歳

4月、敦賀女子短期大学学長に就任(92年3月まで)。

1989(昭和64・平成元)年 67歳

6月、「花に問え」を『中央公論文芸特集』に連載開始。『瀬戸内寂聴伝記小説集成』(全5巻)を文藝春秋より刊行開始(90年3月完結)。

1990(平成2)年 68歳

1月、「手毬」を『新潮』に、2月、「白道」を『群像』に連載開始。

1992(平成4)年 70歳

10月、『花に問え』で第28回谷崎潤一郎賞を受賞。

1993(平成5)年 71歳

7月、「草筏」を『中央公論』に連載開始。

1996(平成8)年 74歳

3月、『白道』で第46回芸術選奨文部大臣賞を受賞。11月、『わたしの樋口一葉』を小学館より刊行。12月、現代語訳『源氏物語』(全10巻)を講談社より刊行開始(98年4月完結)。

1997(平成9)年 75歳

4月、『つれなかりせばなかなかに――妻をめぐる文豪と詩人の恋の葛藤』を中央公論社より刊行。11月、文化功労者に選ばれる。

2000(平成12)年 78歳

1月、「場所」を『新潮』に連載開始。3月、新作能「夢浮橋」の台本を書き、国立能楽堂で上演される。
出典 新潮社HP

 

瀬戸内寂聴 原発反対

・老いてなお反骨精神を持ち続ける作家2人とルポライターがきょう、集団ハンストを激励するために経産省前テント広場を訪れた。澤地久枝(81歳)、瀬戸内寂聴(89歳)、鎌田慧(73歳)の3氏だ。

「日本の未来の命に対して不安を持っている人達に“原発はダメ”とはっきり意志表示したい。原発が再稼働したら日本は最低の国、どん底の国。(政府は)それ位の恥ずかしさを知っているはず」(澤地さん)。澤地さんは昨日からハンストに入っている。

「90年生きてきて、今の日本が一番ひどい。90歳のバアさんが座ったらマスコミも捨てておけないのでは。余生は原発反対にかける」(瀬戸内さん)。
出典 田中龍作ジャーナル

 

 

・まさに今、経済産業省の前で瀬戸内寂聴さんたちの座り込みが続いています。

90歳の寂聴さんに、ここまでさせているのは政府であり原発マフィアたちです。

「私が生きてきた90年の中で今が最も悪い時代です」という寂聴さんの言葉に涙が出ました。本当に、本当に、お金のために国民の命を犠牲にする原発はやめてください。
出典 楽天Social News

 

 

瀬戸内寂聴 『瀬戸内寂聴全集』完結記念インタビュー

『源氏物語』が出たときにもう死んでもいいと思って、全集が出るのが決まったとき、この刊行が終わるまでは……と思った。完結して、もう書くことなんてないわ、と思っていたけれど、やっぱり次に書きたいものが出てくる。泉の水は汲むほど湧いてくるように、頭を空っぽにすると、また出てくる。作家なんて本当はこんなに割の悪い仕事はない。書くことが好きでないとできませんよ。書き終わったときの、あの喜びがなんとも言えないんです。書いている間は他のことは何も出来ない、風呂にも入りたくない。毛穴が広がって書きたいことが出ていってしまうような気になる。人と話もしたくない。だから孤独に強く耐えられる人でないと小説家になれないでしょうね。でも私は生まれ変わっても、小説家になりたいわ。小説家になって後悔はしていません。
ただ、この全集にはまだまだ入れたい作品がたくさんありましたねぇ。随筆ももっと読んでもらいたかったし、心残りが色々あるんです。何といっても五十年で十万枚余りの原稿用紙に書いてきたんですから。死んだら、もう次の全集は出してくれないでしょうね(笑)。
出典 新潮社HP