末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.20 ~矜恃とうぬぼれ~

境遇や能力の問題ではなく「平等」な条件の人生が違って見える理由?
末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.20 ~矜恃とうぬぼれ~

うまくいく人、いかない人

 

自己実現に関することについてこれまで書いてきましたが、今回は、人生の流れがスムーズでうまくいっている人そうでない人の違いについて触れてみたいと思います。

まず確認しておきたいのは、「平等」ということについてです。「思考が現実化する」という仕組みにおいて、わたしたちは平等であり、人生に「違い」があるように見えるのは、境遇や能力の問題ではなく、「思考」の問題だと言えます。

うまくいく人といかない人の違いは――たとえ生育歴が似たようなものであったとしても明暗分かれる理由は――、物事の受け止め方、それに基づく人との関わり方にあるということです。「思考」そのものの違いです。

「セルフイメージの書き換え」というのは、人生によりよい変容をもたらすための手法としてよく取り上げられるものですが、自分で自分をどのような存在として見ているかが、自己実現において重要だと言えるでしょう。

うまくいっている人は、明るくほがらかで人によっては堂々として見え、自分の思いを明確に話すことができ、揺るがないものを持っています。自分自身のことを信じているし、思考に制限を設けません。一緒にいると、こちらまで元気で前向きになれます。

一方、うまくいかない人はというと、表情が硬く暗い時が多く、たいてい姿勢が悪く、考えを述べることに抵抗があるので曖昧にぼかし、自分に自信がなく、「でも」「だって」が口癖で、制限をつくってばかりいます。

親や育ちがどうだから、ということは理由にはなりません。不幸自慢をしたところで、うまくいかない人生を、そのネガティブな思考によって維持することはできても、人生がよき方向に流れていくことはないのです。

自分をどのように見るか。哀れだと見るなら、哀れです。劣っているのだと見るなら、劣っています。見たいように見ているのです。
その見かたは、誰かに強いられたものではなく、自分で、好きで選んでそのように見ているのだということをまず認めないことには、お腹の奥底に抱えたままの「不満」や「恨み」を手放すことはできないでしょう。

そんなものはない。そう断言できるならば、人生におけるあらゆる体験を、誰かのせいにはせずに、すべて自分の思考の責任だということをすっかり受け入れている、ということです。そしてそうであるなら、「うまくいく人」だと言えます。

 

 

矜恃とうぬぼれ

 

「自分に自信は持てません。なんだか、そういうのって、うぬぼれているような気がするんですよね。」

過去、何度かこういったことを聞いたことがあります。
もし、「自分に自信を持つ」ということが、「わたしは他の人と違ってすごいんだと思うこと」であるなら、たしかにそれは高慢だと言えるかもしれません。

これまでの記事で、「自己実現に自信はいらない」ということについて何度か述べてきました(詳しくは下記の連載のバックナンバーをお読みください)。

■末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」

・PART.4 ~「自信」の必要性(その1)~

・PART.5 ~「自信」の必要性(その2)~

・ PART.6 ~「自信」と「確信」~

人より優れていることに価値を置き、自信を持つことにこだわっても、そういうものは真の自己実現において妨げにしかなりません。誰かと張り合っても意味がないのです。

けれども、「自分を信頼する」ということは、実現において欠かせない要素です。他者との比較など関係ありません。
自分を信頼するというのは、自我(エゴ)としての自分を信じるのではなく、本当の自分を信頼することであり、つまりそれは自分のガイドハイヤーセルフ天を信じることだと言い換えられます。

初詣や厄払いのときにだけ、「みんなしているから」やっている、とりあえず天を信じてみる、というのではなくて、たとえそういうことに全く関心を持たない人のことも、愛し護っている存在があるということ(宗教や信心に関係がないということ)を、すべての人が平等に愛され祝福されているのだということを、ただ受け入れることが大切なのです。

それを素直に信じ、自分を使っていただくことを喜びとするなら、矜恃(きょうじ)――自分の能力を信じていだく誇り(広辞苑第六版)――というものが、自然とその人のまとう空気に現れてくるものなのだろうと思います。

だから、うまくいっている人には、ぶれない自信と言えるような、強さと愛に基づく自尊の心があるように感じられるのでしょう。
自分という存在に誇りを持つということは、「肉体であるわたし=自我(エゴ)」にうぬぼれることではなく、真の意味において自他ともに差異のない自己をありがたく受け入れることなのだと思うのです。

プライドを持つのなら、誰かより優れたわたし、誰かより勝っているわたし、特別な能力があるわたし、という幻想そのものに抱くのではなく、スピリットであるわたしたち、使っていただけるわたしたち、清らかな自己に、その無限の力に、矜恃を保っていたいものです。

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