元精神科看護師 さん☆おとぴ presents “いのちのしくみ”vol.3 〜いのちのしくみの一部とは〜

本来の、「いのちそのもの」の状態を生きていれば、自らのいのちを生きること、そして互いに活かし合い、助け合い、補い合い、愛し合うと言うプラグラムがインプットされているので、この世は自然と調和された世界が発展していきます。

いのちは生きています。

いのちをより繁栄させるため肉体という有限な囲いをもってこの世に表れたのが私達です。

いのちはひとつですが、その中で、多面性、多様性があります。
いのちの多面性の表れとしてそれぞれ個々に、個性があります。

だから大前提として、人と違うのが当たり前です。

個々の個性があるために、いのちは自らの多面性を活かし味わうことができます。

これは、いのちの喜びのひとつでもあります。

そして人は、「いのちそのもの」のエネルギーの状態で産まれて来ます。

3歳ぐらいまでの子どもをはじめ、動物や自然は「いのちそのもの」のエネルギーを放っています。

いのちは、愛であり、神であり、光でもあります。

「いのちそのもの」、「愛そのもの」の状態だけでなく、愛じゃないものがあることで、より愛を際立たせることができます。

そのため、悪の種を産まれる時にギフトとしてもらってきます。

この悪の種にあたるのが「有限である肉体」、そしてその一部である「形状記憶合金のように色んな記憶を再生する思考(脳)」です。

これがあることによって、人は肉体、思考が自分のすべてだという誤解をします。

それでも幼いうちはエネルギーが分かるので内的な「いのちそのもの」の感覚を保っていますが、大いなるしかけの一部により

3歳前後で 愛そのものの自分を封じ

10歳前後で 社会とかかわりにおける自分を封じます。

これは本来、絶対的なものである「いのちそのものである自分」を捨てる体験なので、ものすごい恐怖と痛みを伴って封じています。

なんで封じるかというと、封じられた状態で生きている大人を通して、この感覚をもったままでは生きられないと強く思い込んでしまうからです。

本来の感覚で生きていると、すべてが嘘のように見え、
大人たちも内的な感覚が潰れてしまいます。

いのちを生きていない、ゾンビのように見えてしまい、それに耐えられず自分を封じてしまいます。

まれに、わたしのように、その時に封じきれておらず、いのちそのものの状態を忘れていない人がいますが、そういう人はものすごい痛みを感じながら生きて来ているので、それが反映されて、人生もものすごく苦しいものになりがちなようです。

本来の、「いのちそのもの」の状態を生きていれば、自らのいのちを生きること、そして互いに活かし合い、助け合い、補い合い、愛し合うと言うプラグラムがインプットされているので、この世は自然と調和された世界が発展していきます。

ですが、ほぼすべての人が「いのちそのもの」で生きることを封じて、頭で覚えた常識の世界に生きているために、自らも、周りも傷つけるような生き方しかできなくなってしまいました。

そうやって人は「いのちそのもの」である自分を封じ、自分でないものになって行きます。

前時代までは、「いのちそのもの」である自分を忘れるステージだったので、そうして生きるしかありませんでしたが、時代は完全に変わり「いのちそのもの」である自分を思い出すステージに入りました。

「いのちそのもの」である自分にいつか戻れるように
この肉体にはある仕掛けがあります。

わたしたちの中にある、いのちの光が、カラダを通って外側の世界に届き、自分のカラダのエネルギーの状態すべてを世界というスクリーンに映し出します。

多くの人が誤解していますし、わたしも以前は誤解していましたが、カルマというのは、外側の出来事に対して発生するものではなくて、本来の「いのちそのもの」である自分との差異がカラダに溜まったものを指します。

要はありのままの、「いのちそのもの」の自分を生きれていない苦しみや、抑圧された色々な感情や感覚などが、生きてきた年数分カラダに蓄積されたもの……それがカルマです。

カルマのエネルギーが自分の世界に投影されることによって
さまざまな出来事が起こります。

例えば、恐怖を強く溜めこんでいる人は、色んな出来事に恐怖を感じるでしょう。

この恐怖の記憶が解消されていれば、どんな出来事があっても恐怖を感じませんし、恐怖の体験も起きません。

怒りを封じて溜めこんでいる人は怒る人がやたらと周りにいたり、どうしようもなく腹が立つことが起こりやすかったりします。

だから自分の世界を変えるためには、自分自身を知り、いままで自分がどんな想いで生きてきたか、自分がどんなエネルギーを溜めこんでいるか知ることが大切なんです。

感情自体に良い悪いはないので、どんな感情もありのままを体験すれば、それは人生の経験という宝として昇華されていきます。

それを感謝しなければならないとか、人に優しくしなければいけないという、教え込まれた思い込みのために、本来の自分の感情を隠して感じ辛くなっていき、感情や感覚が鈍化している方がとても多いです。

しかし、いのちには “ありのままの自分を生きたい”という
本能的な欲求がとても強くあります。

ありのままの自分を生きるためには、いままで溜め込んだエネルギーを癒し解放する必要があるので、その感情に気付くため色んな出来事がおこります。

一方で、人は落差のなかにいるので、自分を知るために自分でないものを強く経験して、自分からずれればずれるほど、本来の自分に戻れた時の喜びが大きいので、思いっきり自分からずれている人は、それだけ戻る喜びがあるということです。

ですのでいったん、自分からずれながらも再び自分に戻ろうとして、自分が抑圧して来た色々な感情や感覚を想起するような出来事が次々と起こります。

でも本来の自分からずれることも、落差を知るという上においては喜びなので、形状記憶合金のように思考が働き、カラダの声を無視させようとします。

本来、頭は記憶を整理するためのコンピュータでしかないので、問題解決能力は全くありません。

覚えた記憶のプログラムを再生し続けるだけです。

でもカラダはいつでも正確に自分自身が発しているエネルギーを
表現し続けて本来の自分に戻ろうとし続けます。

この二つの拮抗するプログラムが、私たちのカラダでいつも起こっている、いのちのしくみの一部です。

■さん☆おとぴ presents いのちのしくみ ~いのちを生きる~
http://ameblo.jp/sun-otopi/