娘のイヤイヤ期に右往左往の日々です。
歯を磨く、靴を履く、着替える、片付けるなど、彼女の気分次第のところがあります。
その娘を見ていると、いつから「やりたいこと」ではなく、「やらなくてはいけないこと」が生活の多くを占めるようになったのか、顧みてしまいます。
娘のイヤイヤ期、欲求に正直な態度は僕にさまざまなメッセージを届けてくれます。
自分は一体、どうしたいのか? どうなりたいのか? を知ろうと思うことは、人生をより良くするために必要なものだと成功哲学や自己啓発などの本やセミナーで、よく聞いていました。
自ら探そうとして内省をくり返す、または、同じ探究心を持つ仲間やパートナーに指摘してもらうのは、自分では気づかなかった性格や才能を見つけるのにとても役に立つと言えます。自分では分からない、他人から見えている自分を知ることができます。
心理学で言うところの「ジョハリの窓」 の視点を持つことは新たな自分に気づけるかもしれません。
しかし、自分も、他人もわからない未知の自分に気づくにはどうすればいいのでしょうか?
それは全く意図しないところから気づくきっかけがあると、子育てをしていて思います。
自己主張の強い娘の小葉にそのきっかけをもらいます。
ある日、夕飯の支度のために台所で作業をしていると、小葉がお腹を空かして騒ぎ出しました。
ベビーサインで「食べる」のサインと声をあげて僕を急き立ててくるのです。
ちょっと待ってくれる? と伝えても、幼児の欲求は空気を読まずに正直です。
こちらの都合や、段取りなどはおかまいなしです。
あまりに急き立てられた僕は、小葉にキツく叱ってしまいました。
それまでも、急き立てられて指を切ったり、皿を割ったり、と台所での粗相は続いていました。そのことも僕が本当の自分に気づくサインだったのだろうと思いますが、無意識に我慢をする性格は疲れを自覚していませんでした。
小葉が空気を読まずにプレッシャーをかけてくれたおかげで、ひどく疲れている自分に気づくことができました。我慢や犠牲を自分に強いる癖は、大好きな料理でさえも顕れていたようです。
また、別の日に、雨上がりの公園で小葉と遊んでいる時のことです。
ブランコのある場所に大きな水溜りが出来ていました。
長靴を履いているとはいえ、深みがある水溜りだったので、そこには近づかないように小葉を誘導していました。
残念ながら、太陽の光できらきらと光り輝く水溜りはとても綺麗に小葉の目には映ったようです。
すぐに走り出し、その水溜りの中でバチャバチャと足踏みし出しました。
「ああ!汚れてしまう!」としばらく、息が止まっていた僕でした。
ようやく息が出来るようになり、諦めて水溜りで一緒に遊びだしました。
水溜りで手を洗うなんて、いつ以来だろうと思い返したりしました。
長靴の意味が無く、水浸しになって遊ぶ小葉に不思議と笑みがこぼれました。
そして、汚れまくった自分に不快どころか爽快さを感じました。
靴を汚してはいけない、濡れると風邪をひく、後で洗濯が大変と自分を制限していたのでしょう。
彼女のおかげでその時は、まるで、自分にした足かせのようなものを外したような感じでした。
パパの気持ちよりも、自分の欲求に素直な彼女のおかげでした。
水たまりで遊ぶことがとても楽しいことだと気づかせてくれたのです。
娘の保護者としての大義名分のせいで、正当化される数々の娘へのコントロールは、ひょっとしたら、僕が自分自身への制約になっているのではないだろうか? と思い返す日々です。
娘をコントロールしようと、しなくてはいけないと思う自分を省みます。
天候はコントロールできないので、自分の行動を変えていきます。
雨が降ったら傘を持って出かける、晴れたら外出する、風が吹き荒れるならコートを着るというように。
娘もコントロールできないと思えると、このイヤイヤ期はもっと多くの学びがあるように思います。
コントロールできないものを受け容れる強さが欲しいと思う今日この頃です。
コントロールできるものは、「自分」ということでしょうか。