北イタリアより〜西洋と東洋の女神-偉大なる母たち (後編)

キリストの死後、迫害を逃れてエルサレムからマグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコ ベ、従者のサラ、マルタ、ラザロ達がこの地へ流れ着いたという伝承があります。

黒い聖母は、キリスト教以前の異教時代の地母神信仰が源流にあるという説があり、 その時代のヨーロッパでは、ケルト、ギリシャ、ローマの神々が結びついて出来た地母神を崇拝していたと言われています。

キリスト教では不吉とされる黒色が、その時代では以外とそうではなかったのです。

キリスト教布教すなわち国家の拡大において、これらの土着の信仰との衝突を避ける必要性から、聖母マリアを黒く塗る事において、母なる大地などの女神などの土着信仰と結びつけていく必要が あったと言われています。

そう考えると、カトリック教会が異教の女神を認めたと言われたくない為に、無視する背景も見えてきます。

もう1つ黒いマリアの起源として考えられるのが、流浪の民であるジプシー。
ジプシーはロマ (Roma)と呼ばれており、その名の通りローマ帝国を理想郷と考えて、その地を捜し求めて放浪の旅をしている民族とも言われています。

ロマの起源は、インドの北部にあり民族的にはインド系です。

従って、ロマの信仰はヒンズー教でしたが、カースト制にも入れない身分の低いロマにとってのヒンズー教はもっとも原始的なもので ケルト人と同様に土着的な地母神信仰に近いものでした。

しかし、彼らは、ヨーロッパで生活する 為に容易にキリスト教を受け入れていますので、その結果、彼らの地母神(ヒンズーの神)と聖母マリアの結びつきが自然に生じて、黒いヒンズー教の神に倣い黒い聖母像に繋がったと見ることが出来ます。

南フランスにある黒い聖母像には、今でもロマの巡礼地(サント・マリー・ド・ラ・メール)があります。

ロマの崇拝の対象である黒い聖母像は、キリストの処刑に立ち会った三人のマリア(マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、マリア・サロメ)の一人であるマグダラのマリアの召使である (マグダラのマリアとキリストとの子供とも考えられている)小麦色肌のサラと言われています。

従って、黒い聖母像ではなく“黒いサラ”となります。

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<黒いサラ>

サラは(仏 Sainte Sarah la Kali )ヒンズーの女神の名前から由来すると思われる名前、カーリ ーとも呼ばれ、毎年5月と10月にこの村で聖女サラのお祭りがあり、ヨーロッパ中のジプシーが集まって海にサラ像を運ぶそうです。

やっぱり……!

至聖所で聞いた「カーリー神だわね。」というヨギニ • シャンバビの言葉は的中していた。

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<カーリー神>

キリストの死後、迫害を逃れてエルサレムからマグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコ ベ、従者のサラ、マルタ、ラザロ達がこの地へ流れ着いたという伝承があります。

そのうち、マリア・サロメとマリア・ヤコベとサラがここに残ったと言われていますが、これがこの街の名、サント・マリー・ド・ラ・メール(海からの聖マリア達)の由来のようです。

インド北部から600万 km 以上の距離を経て、サント・マリー・ド・ラ・メールにカーリー神 (聖サラ)が教会に祭られているなんて!

それもこの地で没した他のマリア二人と共に。

キリストとマグダラのマリアとの間に生まれたと言われるサラ。

マグダラのマリアも、実は肌の黒いジプシーであったのか……黒い聖母とは、マグダラのマリアのことなのか……。

キリストはインドに住んでいた時期があったという話も聞いたことがある。
そして私が今一緒にいるヨギニ • シャンバビは、ジプシーと同じ北インド出身で、カーリーを熱烈 に信奉している。
幼少の頃何度もサクロ • モンテを訪れたと言うシルビアも、今はカーリーを信奉するヨギニだ。
この瞬間女神の存在を感じた。

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<ヨギニシルビア>

インドから遠く離れたイタリアの聖山で、カーリー神が時空を超え私達に微笑みかける。
そして時間を再吸収し、宇宙を超えた永遠の源流へ私達をいざなおうとしていた。

Om Krim Hum Hrim!(おわり)