講師や鑑定を行っていると、それ以外の時間に受講生やクライアントさんと会うときは、ついつい神経が尖ってしまいます。
こちらはオンオフを切り替えているのに、相手が講座や鑑定の延長線上にいる場合……実際にお仕事をされている方はきっと同じ経験があると思います。
「その質問は講座(または鑑定)のときにしてください。」
この言葉をどのタイミングで切り出すか?なかなか難しいものですよね。
それはさておき……自分なりの定義を胸に、私は自らが降ろしたシャッターを開けることにしました。
目の前にいる人に好かれたいし嫌われたくない、というのは誰しもが持つ自然な感情だと思います。しかし好かれよう・気に入られようとする態度も、度が過ぎると相手には鬱陶しいものに映ります。嫌われまいとビクビクしていると、それもまた相手には厄介な姿に映ります。どの辺りで鬱陶しかったり厄介になるかは、相手の度量によるのでしょうが……。
好かれたいも嫌われたくないも、要は相手をコントロールするエネルギーでしかないのです。だからどこかで破綻するし、なにより自分自身が疲弊するのだと思います。
相手に好かれたい・嫌われたくないではなく、自分が相手を「好きか?」「嫌いか?」それでいいじゃないか……というのが私の出した結論でした。しかしそれだけだと些細な感情を優先してしまいがちです。
感情に走らないよう客観的であることを忘れないように、こんな定義を自分のなかに設置してみました。
「私は第三者の前で相手のことをどう伝えているだろう?」
「どういう言葉で相手を評価する自分がいるだろう?」
つまり第三者の前で不平不満や愚痴を漏らしてしまう相手であればシャッターを降ろす。
逆に賞賛の言葉が次々飛び出してくる相手であれば、私の友達カテゴリーに勝手に入れてしまう、といったものです。
不平不満や愚痴の根っこには価値観の違いや性格の不一致、または生理的に受け付けないタイプというものもあると思います。感情といえば感情なのですが、ここは恋愛とは違うので(恋愛感情とは言いますが、友達感情とは言いませんよね)サックリ感情で片付けてもよいということにしました。
その代わり、私自身が相手の感情によって相手からシャッターを閉じられてもそれを許すこと。そうでなけりゃ単なるわがままでしかありません。
そんな定義をコッソリ心のなかに設置しつつ、改めて開けたシャッターから世界をのぞいてみると、今までゴチャゴチャしていた世界がスッキリと見えます。
このときから私のなかで「あの人素敵!この人も素敵!私の友達カテゴリーに勝手に入れちゃえ!」となってきました。人類皆エネミーという視点で見ていた頃の自分が嘘のようです。
そうなると「好かれたい」という欲求も出てくるのですが、そこはグッと飲み込みます。するとどうでしょう、意外やどこでも変わらぬ自然体の私になっていったのです。
感情の起伏が激しく、面倒くさがりなのに好きなものにはとことん暑苦しい私。
それを他者にどう思われようと、それは相手の勝手。しかし相手の勝手を許す変わりに私の勝手も許す。
「でも尊敬する相手に嫌われたりしたら傷つきませんか?」
その質問はあって然りでしょう。
しかしこちらの尊敬とは裏腹に相手から拒絶されるようなときは、大抵「好かれたい・よく思われたい」というコントロールするエネルギーが働いています。それが例え無意識であっても…です。そしてコントロールされるエネルギーの受け止め方は人それぞれ。度量が小さいからと責められるものでなければ、大きいからと賞賛されるものでもないように感じます。
「結局さ、相手の勝手を許す代わりに自分の勝手も許すなんて、自分のことが好きじゃないと出来ないものよね。」
「やはり根本はそこなのね、ガブリエル。」
「あとはさ、アンタの勝手を許してくれる…これまた勝手な人の存在に気づいたとき、アンタになにが出来るかってこと。」
「それってつまり……アガペーからラブってこと?」
「そうよぉ~ん、そこからが結構難しかったりするのよぉ~ん。」
はい、実はこれが私の『2015年宇宙予報テーマ』なのです。
(次回「どこに行こうかしら?銀河の海は広大だわ」編)