陰陽道が失われた原因は、あの偉人によるものだった!

遙か昔の話とはいえ、陰陽道の技法が失われてしまったのは、とても残念なことといえるでしょう。

【秀吉が行った陰陽師弾圧】

秀吉が天下を取ってから、大規模な「陰陽師への弾圧」を行いました。厳密にいうと、陰陽師を中心とした、祈祷師や呪術師全般を対象にしています。
その理由は定かではないのですが、「占いや予言によって人心を惑わす可能性があるから」というものや、当時の陰陽寮の責任者であった「土御門久脩」がなんらかの不始末をしたからという説があります。中には、秀頼の実の父は秀吉ではなく、陰陽師などの呪術師だったからという奇抜な説すらあるのです。

土御門久脩の不始末についても、息子の秀頼を呪詛したからというものや、徳川の戦勝祈願の呪術を使ったというもの、有力なものとしては豊臣秀次を秀吉が切腹させたときに、秀次よりだったことで土御門久脩が巻き込まれたという説などがあります。
どちらにせよ、土御門久脩は「流刑」とされ、京都から福井へと送られて、「100名以上の陰陽師が荒地開墾の名目で辺境に追いやられました」。さらに、当時すでに陰陽道のシンボルとなっていた安倍晴明ゆかりの施設や書類などを「全て破棄」してしまったのです。

 

【散逸してしまった陰陽道の技術】

前述の大坂夏の陣で豊臣家は事実上滅亡し、「徳川家康が天下を取る」ことになりました。それにともない、土御門久脩は京都へと戻って陰陽寮も復興しますが、秀吉の時代の弾圧があまりにも大規模だったために、「秘伝書や儀式道具などをほとんど失ってしまい」、当時強い力を持っていた吉田神道から技術を教えて貰ってようやく体裁を整えるという状態に陥っていました。
このときに陰陽道の看板ともいえる「六壬式占」の技法もほぼ失われたといわれていますので、どれほど過酷な状況だったかわかるでしょう。

その後、陰陽寮自体は明治時代まで存続しましたが、それ以降は陰陽道という形はなくなります。
戦後に陰陽道を司っていた土御門家が「天社土御門神道本庁(てんしゃつちみかどしんとうほんちょう)」という形で復興し、現在でも存在してはいますが、こちらはあくまでも「天社土御門神道」であり、陰陽道ではありません。
実際、天社土御門神道本庁は、「陰陽師は明治以降一切認定していない」と明言しています。

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【弾圧がなかったら陰陽道は存続していた?】

今でも、多くの人を魅了する陰陽道と陰陽師。秀吉による弾圧がなかったならば、どのような技法を現代まで伝えてくれたのでしょうか?
もしかしたら、現在でも陰陽寮が存続していたのかもしれません。このように考えると、遙か昔の話とはいえ、陰陽道の技法が失われてしまったのは、とても残念なことといえるでしょう。

History of the person who crackdown “Onmyodou”.
It lost secret.

 

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