私の父、母というストーリーを超えて~非二元(ノンデュアリティ)とはすべてを受容する私たちの姿~

ある日、幻想に対して怒ったり嘆いていたという事実を理解しました。 そう、すべては自分のただのイメージだったのです。
私の父、母というストーリーを超えて~非二元(ノンデュアリティ)とはすべてを受容する私たちの姿~

「なんでこんな人が自分の親なんだろう?」と親との関係に苦痛を感じている人は多いですよね。嫌ったり、憎んだり……と。

私も例にもれずそう思っていた時期がありました。でも今は違います。
ではなぜ今は違うのでしょう?
目の前にいる人は過去も今も「私の母」という事実があるのに、です。

 

それは自分の中にある両親に対するストーリーが小さくなってきたからです。

私たちの人間関係の苦しみは、相手に知らず知らずに望んでいることが多ければ多いほど、強くなります。

「母親ならこうあるべき」「父親ならこうするべき」といった、たくさんの「べきべき」です。
それが良いとか悪いとかではありませんが、苦しみを生み出してしまうなら、自分自身がどんなフィルター(思考、信念、思い込み、投影、偏見)でみているのかを探ってみることは大切なことです。

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私は「私の父と母」というたくさんのイメージで、両親に関わってきました。
ある日、幻想に対して怒ったり嘆いていたという事実を理解しました。
そう、すべては自分のただのイメージだったのです。
真実でもなんでもありませんでした。それはあまりにも滑稽に感じたのをおぼえています。

私のイメージに応えられる人などいないのに、自分だって他人の期待に完璧に応えられないのに、私は自分バージョンの「両親」にしがみついて、手を放すことを頑なに拒否していたのです。
そうしてあるがままの両親をみることを見逃していました。

「私の両親」というのは完全に役割です。
「私は彼らの娘」というのも役割です。
ならばそれを一つ一つそれを外してみたらどうなるでしょう?
そこにいるのは、ただただテレビをみている年配の女性でした。

さらに「男性である」「女性である」「○歳」「主婦」……そういったこともすべて外したらどうなるでしょう?

そこにあったのは、ただただ「今ここにある」純粋意識そのものでした。
それは、「私」というストーリをすべて外したときにも出現する純粋意識です。
「私」「母」という区別されることのない「今この瞬間」にある純粋意識そのものが私であり、母であったのです。
過去も未来もなく永遠にそこにあり続ける「今ここにある活き活きとした意識」そのものです。

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そしてそのストーリはこの純粋意識の中にしか生まれてはいないのです。

まるで海の表面に出現する波のように。
でもその波はやがて海に消えていきます。
そう、「私の」「あなたの」といわれるものは、全体の中にひょっこりと出現した波です。
大きかろうが小さかろうが、やがてその波は全体に溶け込むのです。
ただただそのままで、ただただ溶け込む(受容される)のです。

私たちはただただそのままで、すべてであり、受容されているのです。

 

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