『養生アルカディア 凝りを巡る哲学的考察とセルフケア』vol.2

「活きた凝り」とは言い換えるのなら「健康な身体の体壁筋肉系に発生する凝り」と言えます。

トリニティウェブ読者の皆様、養生アルカディアにようこそ!

「古来より人が人に手を触れることが医療の原点だった」

さて本連載のタイトルはニコラ・プッサンの描いた傑作「アルカディアの牧人たち」

という絵に由来することを前回の記事にて解説いたしました。

そのプッサンの数ある絵画作品の中に「エリコの盲人」がございます。

この絵の主題はイエス・キリストが盲人の眼を癒すというエピソードで、

この絵にはイエスが街中でひざまづく盲人の目頭に手を当てて、治療する風景が描かれています。

こうしたイエスが病者を癒す奇跡のエピソードは聖書や福音書には数多くの記載があり、

この盲人の場合だけでなく、足の不自由な者や、血漏の女を癒した話、またライ病を治したケースなどもあります。

シチリアのモンレアーレ大聖堂に描かれた「癩病人を癒す」の絵では、

光輪を頭部にまとったイエスが右手をかざして、衰弱したライ病患者を治療する姿が描かれています。

なかでもイエスの奇跡の治療エピソードにおいて、もっとも有名なのが「中風者を癒す」場面です。

「人々、中風を病める者を、床にのせ担いきたり、『汝に告ぐ、起きよ、床をとりて家に往け』」(ルカ伝第5章)

このルカ伝の福音書の記述は、イエスがその晩年にガリラヤの村を訪れた際に、

村人たちが担架に乗せて担いできた中風患者、現代で言う脳血管障害の後遺症で

半身麻痺になり歩けなくなった患者を、イエスが手を当てて治療したと解釈できます。

こうした数々のイエスがおこなった奇跡の癒しは、

実は東洋医学の原点である「手当て」である、

と現代の専門家諸子は分析している。

「凝りを触ることでみえてくる指先の向こうのリアル」

鍼灸院の患者さんは大きく分けて二つの層がございます。

まずひとつは病気や症状などの訴えがあってそれを治すという純粋に医療としての治病目的で通うケース。

もうひとつは特に病気や症状は今現在はないけれど、将来のいつか病気になったり症状がでたりしないために

セルフケアが目的で通うケース。

一般的にこのように鍼灸院の患者さんは医療と保健の2つの目的の患者さんに大別されます。

それで治病目的で鍼灸院に通われるケースの場合にはシビアな例として、

器質的な病変がすでに非可逆的にリアルに進行してしまっている

パーキンソン症候群やリウマチ、癌や脳卒中の後遺症(中風)などを発症されている患者さんのケースがございます。

こうした病変部に細胞病理学的にゲノムレベルでの変性が顕著な患者さんに見られるのが、

実は凝りの二つの分類のうちの「死んだ凝り」なのです!

「死んだ凝り」とは言い換えるのなら「病変した身体の体壁筋肉系に発生する凝り」と言えます。

このような病的状態の身体に出現する「死んだ凝り」を言葉で表現すると、

どんなにこちらが語りかけても言葉を返してくれない淋しく冷えきったとても固い

「氷のような凝り」と表現できます。

さて、では鍼灸院に通うもうひとつのケースである病気治しを目的としない

セルフケア目的の健康な人びとに見られる凝りとはいったいどんな凝りなのでしょうか?

この病的ではない健康な身体に出現する凝りが実は「活きた凝り」なのです!

「活きた凝り」とは言い換えるのなら「健康な身体の体壁筋肉系に発生する凝り」と言えます。

このような健康体に出現する「活きた凝り」を言葉で表現すると、

こちらが鍼灸指圧術をもってしてこの指で語りかけると、もううるさいくらいに返事をしてくれる、

まるで元気な子供が大勢ではしゃぎまくっている大家族の家に招かれたような

そんな賑やかで温かく柔らかい「エネルギーのかたまりのような凝り」と言えます。

「凝りを中心軸に据えた養生セルフケアの重要性」

「活きた凝り」を治療していると、

そのツボからはとてつもないパワーが発散されてきます。

だから「活きた凝り」は「パワー・スポット」なのです!

「死んだ凝り」を治療していても、

そのツボからはなかなかパワーが伝わってきません。

だから「死んだ凝り」は「フリーズ・スポット」なのです!

「活きた凝り」を「死んだ凝り」にしてしまわない

未病治セルフケアの実践の先に

健康の理想郷である養生アルカディアの森が

広がっています。

「手当てこそが医療の原初的かつ神聖なありようである」

イタリアは盛期ルネサンスの巨匠ミケランジェロは世界一有名な天井画をシスティーナ礼拝堂に描いた。

その「天地創造」のいちシーンこそが、神がアダムに命を吹き込む「アダムの創造」の場面だ。

天空から舞い降りた神の右手の人差し指の指先は、今まさに地上で待つアダムの伸ばした左手の人差し指の指先にちょうど触れる瞬間である。

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記、2章7)

指が触れ、息が吹き込まれることで神からアダムに命がインスパイアされたように、

人は人に触れられることでその身心に癒しを感じ、得も言われぬ充足感を覚え、

「活きた凝り」が溶けて、秘められたツボのパワーがその身心にみなぎってくる。

イエスのように一瞬で脳卒中の後遺症の「死んだ凝り」をパワー・スポットに変えることはできないが、

定期的に中風患者のベッドサイドに身を寄せて「手当て」をすることなら私もやっている。

まだまだイエスや神には劣るが、僭越ながらいずれは彼らに追いつきたいと願う

ハリィーです。

》前回の記事はこちら《