エンジェル・セラピスト®夫婦のスピリチュアル子育てPART.61~妻を襲う孤独に誰が寄り添うのか(潤治編)

子育ての中の完璧主義は常に負い目と向き合うことになる

昨年、12月あっという間に娘の小葉は1歳と7ヶ月になり、そこらじゅうを駆けまわっています。出来ることが増えてきて嬉しいようで、お昼寝の時間ももったいないという感じです。親である僕たちはそれとは裏腹に疲労感たっぷりの日々でした。

前回の記事「エンジェル・セラピスト®夫婦のスピリチュアル子育てPART.60~断乳がもたらした祝福(潤治編)」
https://www.el-aura.com/kosodate201412post_1208-html/でもお伝えしていたように、仕事の依頼が増え、仕事のスタイルも変化するという疲労感とは裏腹な祝福をたくさん授かることになりました。

そのような中、寛子は体調を崩しがちで、仕事と育児の両立に思うようにならずに歯がゆい毎日を過ごしていたようです。疲労感というよりも、虚無感や無意味感、そして負い目などを感じることがママには多かったように思います。子育てにはここまでやったら満点というものはありません。

自分で何でもやろうと思えば、どこまでもこだわることはできるでしょうし、また逆に、委任しようと思えばどこまでもできるかもしれません。安心して小葉を預けられる場所は周りにありますし、家事を手伝ってくれるという身内も傍にいてくれます。そういうサービスや人々の厚意に甘えること、委ねることができる環境にはとても感謝しています。しかし、それでママの抱えている問題は一側面しか解決しません。満点がない子育てに完璧主義という愛し方をもって挑む寛子にとってゴールの無いマラソンを走っているような気持ちになるでしょう。

自分の持てる時間のすべてを娘にささげたい。
娘がママを呼びたい時にはすぐ傍に居てあげたい。
泣きたい時はすぐに抱っこしてぬくもりを与えたい。
できるだけ手作りのものを与えてあげたい。
いつも一緒に散歩して、自然に触れていたい。

愛情を形にしようとすればいくらでも形にできるかもしれません。完璧主義をもって愛そうとするといつも自分が理想とする結果にはたどり着きません。もともと、そのような結果はありえないからです。いつも感じるでしょう。

「わたしはできる限りのことができただろうか?」
「わたしは手を抜いていないだろうか?」 目で見て取れる成果はないからです。

子育て2

「子育ての中の完璧主義は常に負い目と向き合うことになる」

人の厚意に甘えれば、本当はどうするのが娘にとって良かったのだろう?わたしが楽をしているだけで、娘はそれを望んでいただろうか?と答えのない、とても孤独な世界で迷い続ける、または自分を責め続けることになるかもしれません。この選択で良かったんだろうか?日常のあらゆる場面でそう思います。ご飯のタイミング、お昼寝の時間、食べたもの、エアコンを使うかどうか、その日の着る服、自分の子を前にした振る舞いなど、無限にその葛藤は襲い続けるかもしれません。

「今日はお昼寝をしていなから、午後は心配だよ。」という寛子に、
「大丈夫だよ、眠くなれば寝るでしょ?」と僕は軽く答えたりもします。

言葉だけをとれば、取るに足らないようなことかもしれません。しかし、この時に起こっている事象は娘の眠る、眠らないことではありません。寛子がひとりで抱えている心配や孤独感や自責をどう家族で向き合っていくか。これが僕たちにとっての本当のテーマです。

保育園にひとりで迎えに行くママ。
トイレトレーニングの最中に汚れた床を拭くママ。
仕事をしながらも、今ごろママを求めて泣いていないだろうかと心配するママ。
仕事に誇りを持っていても、何か代償を払っているように罪悪感を持つママ。
そんな細かいことまで気にすることはないのでは?と周りにたしなめられるママ。

表に出てくる事象にもちろん意味はありますが、
そこだけを改善しようとか、解決しようとしても本当の問題にたどり着かないように思います。

これでいいと自分で決めづらい子育てには、それに同意してくれる人が必要です。
同意、または賞賛、尊敬、労い、感謝をする人です。

それにパートナーがなれれば最高なのかもしれませんが、
僕の浅はかな思いでは、寛子の孤独を完全にぬぐうことはできません。

最優先することは、娘の泣き声ではなく、妻の押し殺している孤独感だと感じています。

それに僕は近づけるのだろうか…。