「宿命」は変えられない~なぜ、今の誕生日を選んで生まれて来たのか PART.25

試練が訪れたときは、神様があなたに「異なる道へ行きなさい」と思い、変化を楽しむぐらいの気持ちで前に進んで行って下さい。 最後に、試練は、成長のための必修な通過点だと思って下さい。

人生は歩めば歩むほど、誰もが多くの困難と遭遇することを覚悟で、この世に生まれ変わっています。

しかし、その「試練」は、苦痛や苦境だけではなく、その「試練」から、あなたは何かを学ぶことを設定しているからです。

霊的レベルを上げるには、どうしても、「試練」という壁を乗り越える必要があります。

その苦難があなたを試されていると思えるとき、あなたはもうすでに異なる魂の道を歩んでいることでしょう。

 

どんな人でも、試練が用意されています。

失恋、リストラ、会社の倒産、離婚、他人との仲違い、誤解、受験の失敗、交通事故、病気、両親や伴侶との別れ、自然災害での家屋の喪失……。

突然の災厄や理不尽と思えるような出来事が起こることがあります。

「どうして、こんな目に遭わなければいけないのか? 」「神も仏もこの世にはいない! 」と声を出して叫びたくなるようなことが、人生を生きる中で突如と襲って来ることがあります。

自分の運命を蔑み、「なぜ? 」という苦痛が胸に突き刺さることでしょう。

そんな経験をした人もいらっしゃることでしょうし、そこまで追い込まれたことがないという方でも、「出来れば、試練がない人生を送りたい」と、考えることもあるでしょう。

そのために、安定した場所を探し求め、貯蓄も蓄え、社会的に信用され、名声もある方が試練に遭遇しないように済むようにと、願うことでしょう。

しかしながら、試練を回避するために、人との交流も避け、財産を溜め込み、行きたいところ、遣りたいことを撤回してまで一生を安定した場所だけで生活し続けるということを望んで生まれ変わっていないはずです。

死を直前にして手に入れられない物は、時間と経験です。

お金や家やブランド物などは、到底、あの世に持って行くことは出来ません。

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ユダヤの聖典であるタルムードで、このようなお話があります。

あるとき、王様がある男に使者を送って自分のところにすぐ来るように命じた。
その男には3人の友達がいた。最初の友達は非常に大切にしていて、お互いに親友だと思っていた。2番目の友達もやはり愛していたけれども、第1番目の友達ほど大切にしてはいなかった。3番目も友達とは思っていたけれども、彼はそれほど関心を持っていなかった。
王から使者が来たとき、彼は何か自分が悪いことをして、それをとがめられるのかとこわかったので、1人で王のところに行く勇気はなく、3人の友達に一緒に来てくれと頼んだ。
まず、いちばん親しく大切にしている友達に一緒に来てくれと頼むと、友達は理由も言わずに「オレはいやだ」と断った。2番目の友達に頼むと、「王宮の扉のところまでは行くけれども、それ以上はついていってやらないよ」と言った。3番目の友達は、「いいとも、君は何も悪いことをしていないのだから、一緒に行って王様にそういってあげるよ」と言った。

3人の友だちとは一体何を意味しているのでしょうか?

第1の友達は「財産」です。どんなに愛していても、死ぬときは残してしかなければならない物でしょう。
第2の友達は「親戚」です。
第3の友達は「善行」です。

「陰徳」とも言えます。

人生で試練を受けたことがある人であれば、何となく理解できると思います。

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多くの試練を背負わなければならないのが人生であり、究極的な人生は、生まれてから死ぬまで、避けては通ることが出来ないことになります。

では、「生まれて来たこと自体が無駄ではないだろうか」と、想えるような不思議な感覚に問うことになってしまいます。

試練はあなたに不安や苦痛を齎すものであるならば、試練などない方がいいと良いのではないだろうか? と、考えてしまうのは当然です。

そもそも「試練」とは何だろう? と、振り出しに戻ってしまいますが、人種、宗教に関係なく、長い年月をかけて様々な人達の人生ストーリーを鑑定させて頂いている中で、試練は嫌な事ではなく、避けるべきこともなく、その試練の中には大切な意味が含まれているということです。

しかしながら、その意味を見出すことが出来ず、遠ざけてしまうことで、苦痛や苦しみとしか感じられないために、辛く、絶望的だと思い、悲しみに浸ってしまうことで、考える余裕がなくなってしまうことで、答えを探すことも出来なくなってしまうこともあります。