簡単本格糠床講座 番外編〜糠床と一つになる

あらゆる仕事(営業でも、職人でも)およそ人の行為全てに言える事で、正直、訳の分からない話だとは思いますが、頭の片隅にでも置いて頂けたら幸いです。

☆糠床と一つになる

およそ「道」と言われているものは、一つになる事を目的としているものです。
「柔道」「書道」「弓道」等々。

学生の頃、弓道のお話を聞かせて頂いた時に「己と的を一つにする」とおっしゃっていました。
柔道なら相手と一つになるから投げられる、とも言われました。
その時は意味不明で、「僕が的になれるわけないじゃん」と一蹴していた覚えがありますが、心の奥底に響くものはありました。
それで、こういった仕事をしていますと、その当時の言葉が実感として感ずるようになってくるのですが、むしろ「モノと一つにならないと上手くいきようがない、満足のしようがない」というところがあります。

この辺りなかなか言葉でお伝えするのが難しいのですが、一言で言えば「当たり前」の事でして、書く必要もないと言えばないのですが。
糠床は答えも終わりも無い発酵食品なので、満足の落としどころの参考になれば、とも思いますが、今回はただの戯言だと思って見て頂けたらと思います。

 

☆比べようのない事が当たり前

外国の方と話すときに、例えば「家屋では靴を脱いで上がるのが日本では当たり前だ」と言った言葉を発する場面というのはあるかと思います。
当然日本人相手にそんな事は言いません。
何故なら皆やっていて当たり前だからです。
その言葉を発するためには、正反対に近い状態がないと成り立ちません。
この時に必ずその正反対の状態、この場合「靴を脱ぐ」と「脱がない」という比較があって、私の日常は脱ぐ事しかしない、という立場から発しています。

このようにして私たちは「当たり前」という言葉を普段は使っているのですが、私が伝えたい当たり前とは「比べようのないところ」の事です。
なので、皆さんその事に対して「当たり前」という認識すら起こさないのが普通です。
例えば車に乗って、目の前に何があるか? と言えば、ハンドルですが、ハンドルがハンドルとして見えてしまう。
そしてそのハンドルは左右に動くようになっていて、あのような形状になっているから、このように握って、左右に動かしてしまう。
この一連の動作に対して何か比べるものがあるでしょうか?
ハンドルの形はあの形以外のモノが通常ない、というのもありますが、当たり前すぎて、ハンドルをハンドルとして認識して握る事すら、当たり前すぎて、当たり前とすら認識してないのです。

 

☆一つになるとは当たり前の世界にいること

この全く認識しない当たり前。
これが一つになる道だと私は感じております。
糠床を開ける前から、そこに糠床があると思った時から、こちら側に湧き上がる諸々の事。
蓋を開けての香り、味。
それらは全て、目の前に糠床があって、この感覚器官があるばっかりに起こる事ですね。
それ(この場合糠床)があるばっかりに起こってしまう諸々。

これこそが「当たり前」でして、それは糠床と既に一つになっているからこそ起こる事です。
だから、既にして一つになっているのですが、当たり前すぎて気づかず通り過ぎてしまい、人は「あ~したい」「こ~したい」「あの人の糠床みたいにしたい」と無理難題をふっかけるので、その時は「糠床と私」に完全に別れてしまうのです。
もちろんその時に、この味や匂いをなんとか対処したい、というのは当然起こり得る事ですし、それに対して我々専門家が色々とアドバイスする事も、専門家でもさらに精進する事も、当然起こり得ます。

とにかく、糠床を楽しくやり続けようとした場合、前途したような「当たり前すぎる当たり前」でやって頂かないと、そもそも終わりのないモノですから、何時まで経っても満足しない糠床になってしまい、単なる流行り廃りの世界での出来事で右往左往するだけで終わってしまいます。
逆に、そこに準ずる事が出来るならば、何時でもどこでも変な香りでも、良い香りでも満足にいく糠床ライフになります。

このような事は何も糠床に限った事ではなく、あらゆる仕事(営業でも、職人でも)およそ人の行為全てに言える事で、正直、訳の分からない話だとは思いますが、頭の片隅にでも置いて頂けたら幸いです。

 

井上漬物店HP
https://www.inoue-tsukemono.com/

 

《井上 昌則 さんの記事一覧はコチラ》
https://www.el-aura.com/writer/masanori-inoue/?c=43514