☆諸行無常だから漬物も作れる〜一瞬たりとも同じ状況の糠漬けは無い

それまで何気なく野菜を糠床に放り込んでいたのですが、野菜を糠床に入れた瞬間からもうその野菜は糠漬けの方向に行っている。

☆諸行無常だから漬物も作れる

仏陀の教えに「諸行無常」があります。
皆様とっくにご存知かと思いますし、当たり前の事です。

こういった当たり前の事にいちいち気づいて言葉にする、というのは、実は結構難しいものです。
仏陀は特にこういった事を多くの言葉で残しています。
この「諸行無常」ですが、改めてご説明するまでもないのですが、一応書かせて頂くと、この世の一切の物は常に移り変わっている、という事です。
今目の前のパソコンがありますが、このパソコンも目に見えない範囲では常に劣化していっています。
「ここにずっとパソコンがある」と思うのが「思い込み」であって、実際は次の瞬間にも劣化しているので、ここにずっとあるわけではないです。
だから必ず壊れるし、1万年後など跡形もありません。
ここで、現実は「劣化している」、頭では「ずっとあり続ける(あり続けたい)」という部分でこのギャップが増える程、苦しみが増える、という事みたいです。

 

☆当たり前すぎるが故に忘れる諸行無常

諸行無常など当たり前の事で間違いようのない真理で、諸行無常を否定する事は、現代科学を持ってしても出来ません
諸行無常の中では命ある者は死ぬ、という事になりますが、逆に言えば、あらゆるものが生まれる可能性がある、という事でもあり得ます。
形ある物は常に形を変える、という絶対的真理があるからこそ、あらゆる物質が製造可能である。という事になります。
料理で言えば、肉の塊であったものが適した焼き加減調理すると、ステーキと呼ばれるようになったりします。
漬物も全く同じで、大根を糠床に入れたら大根の糠漬け、と呼ばれる物になる、という事です。
これって、文章で書くと当たり前すぎてなんの面白味もないのですが、これを実感として感じる、という事になると実際はなかなか感じられません。
なんせ当たり前すぎるので、いちいち感じる必要もないので。
でも、思考というのは、先ほどのように「自分の○○(所有物)」というのは永続してほしい、という願望や執着があって、諸行無常とは違うところに行ってしまいます。
という事は、「当たり前すぎて感じる必要はないのだけど、あまりにも当たり前すぎてついつい忘れてしまう」という事になります。

 

☆漬物と諸行無常

ある時漬物を作っていて「あ~諸行無常だから漬物が出来るんだな~」と実感した時がありました。
それまで何気なく野菜を糠床に放り込んでいたのですが、野菜を糠床に入れた瞬間からもうその野菜は糠漬けの方向に行っている。
故に、糠漬けといえども、一瞬たりとも同じ状況の糠漬けは無い、という事になりますが、これも当たり前の事で、改めてこういったところに書く必要もないのですが。
この時糠床で何が起こっているか、というところをこの時から改めて集中してみるようになりました。
そうした時に、余りにも壮大な感覚が自分の中に生まれてきました。
ミクロとマクロ、全部が全部変わっていく。
そしてそれが一瞬たりとも同じ瞬間がない。
糠床の中、というのは色んな菌がいますので、その壮大さを感じるにはもってこいだったかもしれません。
僕が作っている、というよりも、全てが作っている、というか、作っているという言葉も相応しいか解らなくなった、という感じでした。

井上漬物店HP
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