筆名と本名のあいだ②~姓名判断から近代の文豪を解剖する太宰 治(一九〇九~一九四八)編

太宰は、『斜陽』の成功で、自身の人生に間違いなく明るい展望を見出していました。 しかし、山崎富栄という真面目で一途な愛人の存在が、そんな光に溢れた、未来の到来を許しませんでした。

一方、本名『津島修治』は人格20、外格19、地格19、総画39で、総画以外は全て大凶です(ちなみにミュージシャンの小室哲哉氏も同じタイプの姓名)。
『津』『治』の字は実線だとそれぞれ9画、8画ですが、姓名学では氵(さんずい)はもともと『水』の意味から、ここでは4画と数えます。注目すべきは、30~50代を支配する人格の20画。この数字は破壊短命の最大凶数として、姓名判断では最も忌むべき数です。イチかバチかの世界で大成功を収める暗示もあります。

ちなみに安倍晋三・現首相も『倍』が10画、『晋』が10画で、太宰と同じく人格に20の最大凶意を背負っています
安倍首相は第1次内閣の失敗や病気など多くの苦難を経験しましたが、強い先祖の福徳運が味方しカムバックを果たしました。
しかしこういった例は少なく、大半は中途挫折の最期を迎える可能性が高い数です。
地格の19は、幼少期の不如意、不幸を暗示しています。

太宰は裕福な青森の旧家に生を受けるも、実母ではなく乳母に育てられ、乳離れの後は子守女中のたけの手で養育されるなど、実母の温もりを得られぬ幼年期を送りました。

幼少期の“母”という存在の欠落による飢渇感、名家に生まれたという強烈な自意識と罪悪感は、後に「実に、破廉恥な、低能の時期(『東京八景』)」と蔑み、「阿呆の時代」と自ら嗤った東京生活の下地となりました。
まさに『太宰治』の苦悩と迷妄の青春、その後の栄光と蹉跌を支配したのは、『津島修治』の余りにも激しい姓名の凶意であったと言えましょう。

内妻・小山初代とのカルチモン自殺未遂と離別を経験した昭和十二年には、『二十世紀旗手』を発表。
サブタイトルに「生れて、すみません」というその生涯を端的に表現したフレーズを記した太宰でしたが、太平洋戦争開戦以降は、正妻に迎えた石原美知子との穏やかな結婚生活のもと、旺盛な文筆活動を展開します。

そして終戦後、GHQによる労働運動解放政策を目の当たりにし、青年期から抱いていた左翼革命の成就を夢見た太宰は、最晩年の代表作『斜陽』を発表します。
主人公・かず子に「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」と言わせた太宰治は、この作品で揺るぎない評価と名声を獲得します。

まさに総画23が暗示するユーモアさと天才が花開いた、得意の絶頂にあったと言えましょう。

(画像提供・ウィキペディア)

 

太宰治が本当に“グッド・バイ”したかったものとは

しかし、漸く手に入れた栄光の中で、太宰は『人間失格』『グッド・バイ』(未完)を遺し、愛人の山崎富栄とともに玉川上水に入水し、突然その人生に自ら幕を下ろします。

女性問題の行き詰まりと厭世気分に襲われての自裁という見方が現在もなお支配的ですが、彼の遺体が発見された浅瀬の水際の土には、人間の身体を引き摺ったような跡と、水辺から必死で這い上がろうとしたであろう指の跡が残っていたそうです。

『人間失格』と『グッド・バイ』は、セットで読むと良いかもしれません。
なぜなら、最晩年に彼が著したこの2作品は、凶意に彩られた“津島修治”の人生に“グッド・バイ”し、文字通り“異性に愛され、ユーモアに溢れた天才文士・太宰治”の人生をスタートさせようとしていた、彼の“決意表明”そのものであったからです。

太宰は、『斜陽』の成功で、自身の人生に間違いなく明るい展望を見出していました。
彼は頭の中に、“自殺”の二文字はなかったはずです。

しかし、山崎富栄という真面目で一途な愛人の存在が、そして彼が呪った“津島修治”という名前の凶意が、理想とした未来の到来を許しませんでした。
常に自分の意志とは違う宿命に翻弄された太宰治の生き方が、“若者に希望を与える余裕のなくなった”社会から冷たい仕打ちを受ける、現代の若者の心をとらえ続けているのかもしれません。

しかし、太宰のパブリックイメージとされる“苦悩”の部分に心惹かれる人々には、『グッド・バイ』以降に彼が生きたかった日々を、想像する力を持って欲しいと思います。

“二十一世紀旗手”たちよ、どうにか、なる。(了)

 

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