先日、娘の小葉が通っている幼児園で雑誌の保護者対象の取材がありました。
各学年から各1組ずつ保護者が集まって取材を受けるという形、僕たち夫婦も参加させてもらいました。
なかなかマイノリティ(少数派)、ユニークな教育方針であるところもあり、数年通っている園児の保護者との意見交換の場でもあった今回の取材はとても楽しいものとなりました。
体育会系幼児園と知られるその園の教育方針もそうですが、小葉を入園させるにあたり、何をするにでも一生懸命で、一見無駄に思えるようなことにまでこだわり、全力を尽くす園の姿勢に夫婦の意見は一致しました。
自分の人生に対峙する強さと好奇心を忘れずにいられるような氣がしたのです。
子どもの生きる力を主眼に置いたその教育は、そのまま親自身の生きる力に対して内省をさせてくれます。
親がどのような姿勢で人生を生きているかということでしょうか。
その取材で印象的だった保護者の方の意見は、
「子ども特有の残酷性をスポーツの勝ち負けで燃焼してくれていじめっ子になる子がいない。」
ということでした。
競争を主眼においたスポーツの世界は常に勝ち負けが存在し、その時点での優劣がハッキリと現れます。
自分ができるところ、自分ができないところ、他の子より優れているところ、劣っているところ、などは3歳児からも一目瞭然なわけです。
みーんな素敵、みんなそれぞれ違って良いなどと謳いながら、実際の世界は差別や競争、そして暴力が起こっています。
押しつけられた平等は、僕たちの持つダークサイドを覆い隠し、ふつふつと不完全燃焼してしまっているのでしょうか。
園児たちの自分の力をその時点での全力で試そうとする姿勢は、僕たちの持つダークサイドを健全に燃焼させてくれるようです。
はっきりとした各人の能力差は、差別心を溶かし、「ただ違う」という捉え方になり、暴力や残酷性は「挑戦する闘志」になり、他人と比べる意識は「自分と向き合う意識」に変換されていくのかもしれません。
大人になり、自分の人生を真剣に生きている人ほど、自分にも他人にも優しいと感じます。
他人のせいにせずに、自分と真摯に向き合う感覚がそうさせるのかもしれません。
そもそも、自分の人生に真剣に関わっていると、他人を批判したり、いじめたり、差別することに意識は向かないと僕自身は感じています。
ママ友同士で会うことがあるので、園児たちとも会う機会が多いですが、励ましあったり、褒めあったりする姿をよく目にします。
もちろん、親の価値観を模倣して、競争心が過度に育つ場合があるかもしれません。
それは教育ではなく、僕たち親がどう生きていて、どう感じているかを省みる機会になってくれるのだろうと思います。
僕自身、内なる残酷性や暴力性が疼きだし、他人を批判、差別したくなったら、自分らしく生きていないことを知らせてくれていると思っています。
そして、自分らしく生きるというありがちな言葉が実は多くの問題を解決してくれるのだろうと感じます。
「僕はこの人生をどう生きていきたいだろうか? 魂が望む人生を僕は生きているだろうか? その生き方をしないことを選ぼうとするのはなぜ?」
いつもいつも自分に問いかけながら過ごしています。
子どもたちのシンプルな一挙一動に学びの宝石箱を開ける思いです。
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