娘の小葉は2歳8ヶ月。
すっかりお姉ちゃんになり、言葉も自由に扱うようになってきました。
パパの違和感のある言動にはツッコミを入れ、僕自身はたしなめられている氣持ちになることもしばしばです。
「そうじゃないでしょ? こうでしょ?」
「しなくていいよ!」
「お汁椀じゃないでしょ? お椀でしょ?」
ママのパパへのツッコミをきちんと理解し、娘は自分自身のものにしているようです。
パパとしては、末恐ろしい気がします。
そのようにしっかりとしたお姉ちゃんになったと思う時もあれば、急に赤ちゃんのように泣き出したり、愚図ったりすることもあります。
「あれ?どうしたの?」と始めは思っていましたが、それは僕の「大人の尺度」で彼女を見ているに過ぎないと彼女の泣きっぷりに考えを改めました。
僕は「スピリチュアルマッサージ講座」というものを普段の仕事の中で皆さんにお伝えすることがあります。
その基礎編は、触れ合うことの意味、手がとても素晴らしい受容器であること、非言語の世界での対話に気づくことなど、マッサージをお伝えするということだけにとどまらず、コミュニケーション講座でもあると僕自身は思っています。
僕が多くの方の身体を施術してきて思うのは、身体を通して自分自身に「受け取ること」を許す素晴らしさです。
人は肯定されたいという思いを持ち続けています。
それは自己存在にも関わります。
娘が赤ちゃんの頃、「身体的な触れ合い」をシンプルに求めてきました。
なぜなら、自己存在が危ぶまれることが命にも関わることを知っていたからでしょう。
抱っこをしていないと眠らない、泣きやまないなんてことはよくあることでした。
求めてくるさまや、ママに自分を委ねるさまは、大人の僕には眩しく思えました。
なぜなら、僕は「甘えたい」「寂しい」「怖い」「抱きしめて欲しい」と思っても、素直に言えないからです。泣き叫ぶことができればいいなぁと思います。
と言いつつ、「パパの赤ちゃんがえり」は我が家では良く見られた光景でした……。
僕たち大人は、泣き叫ぶかわりに違う形で自己が肯定されていることを確かめたいと思うのかもしれません。
自慢する人、アピールする人、自己憐憫に浸る人、役に立とうと頑張る人、自分を見せることに躍起な人、痛みを身体に植えつける人、不幸者になろうとする人、病気になる人、緩慢な自殺行為のような食生活を営む人、ヒステリーや癇癪を起こす人、人を傷つけようとする人、批判・中傷をして自分の心の傷を隠す人……。
人は肯定感を得るために、人生のほとんどを使っているのかもしれません。
娘はシンプルに「自己肯定感」を得るために「身体的な触れ合い」を求めてきます。
自分の世界も出来てきて、その頻度すら少なくなりましたが、いつでもその要求に答えたいと思っています。
大人になると、何を要求したいのか分からず、迷子のようになってしまうこともあるから。
何を求めているのか分からず、とりあえず自分を満たしてくれるようなものに飛びつき、違うと不満を漏らし、また、違う何かを求めてさまようなんてこと、あるかもしれません。
とてもシンプルな「抱きしめて欲しい」という娘の要求は、「わたしをまるごと認めて欲しい」という思いであり、その自己肯定感は、きっと大人になっていく過程で試されたり、役になったり、勇気になったり、感謝したりするのだろうと思います。
大人のように話す娘を見て、つい大人の世界に誘い込んでしまいますが、彼女の自己肯定感を育む過程をしっかりと見つめていきたいと思っています。
僕から見た大人の世界は、遠慮やプライドのせいか、欲しいと自分から口には出さずに、○○してくれないと嘆き、施しを待つ、もしくは探し続けるというものでしょうか?
パパのような「受け取り下手な欲しがり屋さん」にならないことを祈りつつ。
身体的な触れ合いの大切さをあらためて感じています。