ありがたいことに娘の「パパを試すような言動」は分かりやすく、僕の「感情の投影」に気づきやすくしてくれます。
おしっこしておこうか? という僕の提案に対して、「いい、嫌!」と言った後におもらしする。
パンツを履かそうとすると、拒絶してノーパンで走り回る。
お散歩行きたいと言いながら、用意をせずにDVDを見出す。
パパやママの大切にしているものをあえて壊す。
都合の悪いことを聞き流す、または聞こえないフリをする。
分かりやすい娘の言動に、僕の感情も分かりやすく反応します。
そこで、僕自身の「感情の投影」を感じるわけです。
無視されたと思うと僕はとても寂しい氣持ちになるのだ。
自分の言っていることが意味の無いものに思えて悲しい。
無価値感・無意味感を刺激されて心が痛い。
僕は頑張ってきたのに、あなたは頑張らないの? と思う。
思い通りにいかないと無力感に苛まれる。
自分のしていることが、失敗や無駄だと思えることが怖い。
傲慢な自分や意味の無い幻影を創り出して怖がっている自分にも気づけます。
まるで、娘の小葉はそういう意味の無い恐怖心や不安、また傲慢な自分をきちんと感じられるようにパパやママをわざわざ怒らせたり、悲しませたりするかのようです。
そうすることによって「ふたりとも感情的に成熟するでしょ?」とでもいうように。
こうした子どもが投げかける「お試し」に大人の理屈や正当性を振りかざして注意したところであまり意味は無く、余計に娘は意固地になることがあります。
僕自身が持っている価値観や常識、執着しているものを娘は上手に溶かしてくれようとしているのかもしれません。そうした「こだわり」を一度、手放したり、考え直したりすると娘の「お試し」は終わります。
子どもは何でも知っていて、大人が考える以上に何かを伝えようとしているのかもしれません。その声を聴けるような平穏な心と洞察力は人生を経験している大人のほうが持つべきだろうとこのところ思います。
「なぜ、怒らせるようなことをわざわざするのだろう?」という視点も僕の怖れや不安が娘に投影されているに過ぎないのですもの。