トイレトレーニングで人知れず悩む真面目で頑張り屋さんのママは多いかと思います。
ママが子供だった頃のママ世代との価値観のギャップから生じているのかもしれません。
オムツは外すもの?外れるもの?
娘の小葉は2歳4ヶ月。
トイレトレーニング真っ最中です。
といってもそれは親が試される機会であり、子どもと一緒に経験を味わっていくものと感じます。
娘の小葉がトイレでおしっこをするようになったのは、1歳を過ぎてすぐでした。
おしっこがトイレやオマルでできるとパパもママも大いに喜んだものでした。
布パンツも履くようになり、嬉々として取り組んでいました。
しかしながら、その後冬を迎え、トイレトレーニングは頓挫しました。
紙おむつのありがたさを日々感じ、甘えていました。
しかし、紙おむつの便利さに甘えながら、やはり不安になるのでした。
「いつ、おむつは外すものなのだろうか?」
お義母さんは「寛子はすぐにオムツが外れたわよ。」と言うし、実母は僕に「潤治は1歳過ぎた頃にはパンツだったわよ。」と。
僕たち夫婦はいつの間にかプレッシャーを感じていたのでした。
ママである寛子は、僕以上のプレッシャーだったでしょう。
1歳はすでに過ぎて、2歳になろうとしている小葉に、春からトイレトレーニング再開だ!
という心の負担を持っていました。
「オムツ、外さなくちゃ!」
これが僕と寛子の気持ちでした。
残念なことに、小葉の気持ち不在で、推し進めていこうとしたわけです。
小葉は僕たちが期待するほど、トイレに座ろうとしなくなりました。
「おしっこ!ちっち!」と申告することすらしなくなり、八方塞がりでした。
僕たちの期待がすでに要求であり、コントロールであることを娘の小葉は感じていたのでしょう。
「おもらししちゃった!」という失敗に対する両親の動揺と焦りは、パパとママがいかに娘をコントロールしようとしていたことをあらわにしてくれました。
きつく怒ってしまう僕やママの姿を娘はどのように見ていたのだろうと省みます。
せっかくその気になり、パンツを履いてみるけど、ママやパパに申告できずにおもらし。
パパやママに怒られて意気消沈し、紙おむつに甘んじる。
本当はパンツにチャレンジしてみたいので、紙おむつを嫌がる。
トイレに行くことも嫌がるので、両親は八方ふさがりで自分たちを責める。
そのような負のスパイラルに陥ってしまうことも多々ありました。
娘の小葉は、
「おもらしをするとパパやママが怒ったり、動揺したりする。でも、可愛いパンツを履いてみたい。お姉ちゃんになりたい。パパやママを喜ばせるような排泄をしたい。」
と密かに思っていたことでしょう。
その思いに僕たちは寄り添えずにいたわけです。
「おもらしするなら、紙おむつでいなさい!」
と言うパパとママに嫌々ながら、従っていたのでしょう。
僕たちのコミュニケーションに問題があるのだと夫婦で話し合いました。
おむつを外そうとする価値観はどこから来るのか?
やはり、僕たちの親世代の価値観だと思います。
義母や実母の子育てに関する価値観に煽られ、自分を見失ったのかもしれません。
「おむつは、結局、外れるもの。」
と思うことにしました。
経皮毒の問題や体裁、世間体を気にして焦燥感を持って取り組むことを止めました。
紙おむつでもパンツでもどちらでも良い。
トイレで用を足すことに越したことはない。
と僕たちの心の負担を夫婦で確認し合い、降ろしました。
娘がトイレに行こうとすること。
「おしっこ!ちっち!」と教えてくれること。
に重きを置いて接するようにしました。
結果よりも過程を大切に、そして、その過程を僕たち夫婦が楽しめるようにしました。
一緒に絵本を読んだり、歌を歌ったり、大切にしているという気持ちを伝えたり、チャレンジしている娘の気持ちを夫婦で共有したり、といった「おむつを外すこと」よりも今の「排泄と向き合うこと」を存分に味わうことにしたのです。
すると、いつの間にか、娘の小葉はおしっこしたことを申告するようになり、おまるやトイレでしようとするように戻りました。
パンツでおもらししても、パパもママも苛つくことが激減しました。
新入社員が仕事に慣れるまで付き添う先輩社員のような気持ちです。
「報告しろ!と言ったよねぇ!」
「だから、止めとけっていったじゃない?!」
「会社、もう、止めろよ!」
とか、通常、言わないですもの。
嫌いな社員や忙しすぎる職場の状況にもよりますが。
周りがどうしている、遅い?早い?とかいう比較も子育てにはあまり必要のないものだろうとあらためて思いました。
結局、親自身が比較や競争に関して「中立でいられない感情」に振り回されているだけなのですから。
子どもはそのような親に対して、
「もっと、わたしを観てくれる?そして、あなたの直感を信頼しても良いのよ。」と言ってくれているのかもしれません。