娘の小葉も2歳3ヶ月、ずいぶんとイヤイヤ期がおさまってきました。
自由意志を検証する彼女のお試し期間も違う段階に来ているのだろうと思います。
今までのイヤイヤ期は、とりあえず「嫌!」ということで、受身だった乳児期には体験できなかった「サポートを受けないこと」を体験できました。
すべてを親である僕たちに依存していた状態から、まさに自分で立つ「自立」というものがどのようなものであるかを検証していたようです。
依存するところと自立するところのバランスを知るためには、まずは何もサポートされない状況が欲しかったんだろうと今思い返してみると納得がいくことが多いです。
「あれ?意外に自分で何でもできないものね。」
と娘の小葉が思っているように見えることもしばしばあります。
「パパやママにとっては何気なくこなしていることが、
わたしにとっては不可能に近いことに思えるわ。」
箸が上手に持てない
靴が思うように履けない
排泄のコントロールができない
台所に立っても火が熱くて近寄れない
シャワーをひとりで浴びられない
幼児にとって当たり前のことですが、
小葉にとっては、パパやママは上手にしているのに!
ともどかしく思うことが多いのでしょう。
上記のように、本当に自分でやりたいことができないと癇癪を起こします。
他のこと、例えば…
高いところのものを取ってもらう
階段を登るのに抱っこしてもらう
スプーンで上手におかずをすくいたい
などは「して!して!おねがい!」と頼んできます。
癇癪を起こすことはあまりなく、強い要求になるだけです。
しかし、先の例で、「本当に自分でやりたいこと」はどうしても自分でやり遂げたいのだろうとそばにいて思います。
自分でやってのけたいと思っている彼女の思いを、
僕の「優しさ」「親切」「期待」「案内」は邪魔しているだけになります。
自分でやり遂げようとしている姿をきちんと受けとめずに、
まどろっこしく思い、パパは暑苦しいアドバイザーになります。
「ほら、こうしたほうがやりやすいでしょう?」
「ほら、無理だったでしょう?」
「始めから、お願いしてよ!」
アドバイザーなのか、偽善者のか、邪魔者なのか僕も分からなくなります。
娘は新しい段階で「自由意志」を試したいようです。
つまりは、「依存と自立のバランス」です。
ひとりで立ち向かってみたい、でも怖い。
怖いけど、やってみたい。
という思いでしょうか。
「パパ、一緒にやってくれないかな?」
「わたし、できるよね?」
「パパ、見ている?」
彼女の心の声が聞こえてきそうです。
現に「パパ、おいで」「パパ、する!」「パパ、いらない!」
と発する言葉の向こうにある彼女の「新しく芽生えた自由意志」に僕はどれほど気づけるだろうか?
いや、僕自身だって自分の「新しく芽生えた自由意志」を捉えきれているかどうか…。
僕自身も本当にやってみたいことは静かに決意します。
それを誰かに相談したり、助けてもらったら、台無しになるような気持ちになることもあります。時間がかかろうとも、遠回りであろうとも、損をするかもしれなくても、それでも自分だけでやってみたいという気持ちがあります。
挑戦を所有したい気持ちです。
その自分をただただ信頼してくれる人がいれば、勇気が湧いてきます。
きっと僕が小葉なら、パパにこう言います。
「先回りして僕の可能性を奪わないで欲しい。」
「自分でそれを発見したかった!」
「パパがついているからやってごらんと言って欲しい!」
「僕のタイミングをじっと待って欲しい。」
「失敗、挫折、あるある!大丈夫、次行ってみよう!な?」
赤ちゃんの頃のようにすべてを依存していた自分から、
自分の足で立ち、自立への階段をパパやママと手をつないで登りたいのだろうと彼女を見ていて思います。
彼女のそっと伸ばす手を見ずに、お尻を押している罪深いパパです。
「あなたはどんなに孤独だっただろう?」
依存と自立のバランスを早くから学ぼうとしている彼女の姿勢に、
僕自身のそのバランスを深く考えさせられる日々です。