娘の小葉が2歳を過ぎ、イヤイヤ期を思う存分に楽しんでいるようです。
その言動はまるでセラピストである僕たち夫婦の隠しきれない感情を炙り出そうとしているかのようです。
つまり、怒り、内なる暴力性、支配欲求、狡さ、などのダークサイドです。
娘のイヤイヤ期は僕たち夫婦をのっぴきならない状況に追い込んでくれ、その結果、自分たちでも気づかなかった「癒されていない感情」に導いてくれます。
子育てにおける『癒されていない感情』
ありがたいことに僕たち夫婦は、多くの人から「セラピスト」と呼ばれるようになりました。
皆さんのご相談の中には、ご両親との関係でのトラウマや癒されていない感情などがあり、僕たちはそれらを扱うことが多々あります。
皆さんの傷が痛いほど感じられる日々、その傷を分かち合うほど、自分が親になる際はそういう傷を我が子に与えないようにしなければならないと思ってしまっていました。
これが僕たち夫婦を縛りつけるものになりました。
「娘の自由意志を尊重しなければならない。」
「親が感情的になってはいけない。」
「叱ることと怒ることは違う。」
「いつも親は平常心でいなければならない。」
「夫婦はいつも仲良くしなければならない。」
「娘が理解するように伝えなければならない。」
「イヤイヤ期は自由意志を鍛える時である。」
人の「観念」「トラウマ」を扱いながらも、自分たちは自分たちに呪縛を与えようとしているわけですから滑稽な話です。
子育てにおける『夫婦間の相互理解』
子育てをしていく際に、埋まっているだろう地雷がハッキリと目に見えて、前に進むのが怖くなってしまったような気持ちでした。
どうすれば前に進めるのか分からずに、何か明確な指針を誰かに、または情報に頼りたくなりました。
そういう時は夫婦でありのままを分かち合います。
娘の小葉に対するさまざまな思いを伝え合っていきます。
そうすると、いつの間にか自分たちが思い出せなかった幼き頃の哀しみや絶望、悔しさ、喜びなども出てきます。
「ああ、僕はその絶望に小葉を付き合わせたいんだ。」
「自由な小葉に嫉妬をして、意地悪をしたい自分がいるんだ。」
「厳しく自分を律した幼少期のわたしがいるんだ。」
「頼ることは悪いことと哀しみを圧し殺したわたしがいるんだ。」
「僕たちはその哀しみに小葉を引きずり込みたいのかもしれない。」
とふたりで感情を出し合い、癒し合い、慰めあいます。
結局は、自分たちの遠い過去の「癒されていない感情」がイヤイヤ期に炙り出されているだけでした。
まるでその感情を「思い出して欲しい。」「ないがしろにしないで欲しい。」「大切にして欲しい。」と言われているかのようでした。
子育てにおける『大人の感情』
僕たちは大人になるにつれて過去の感情を忘れていきます。
忘れること自体は大切なプロセスなのですが、それをないがしろにすることは違うのだろうと感じます。
今、こうして生きている時も、僕たちは日常的に感情的になります。
嫌な言葉に傷つく、苛つく、悲しくなる…
そのような自分が情けなく思うかもしれません。
大人にならなくては!と自分の感情を抑圧してしまうこともあるでしょう。
でも、すべての感情が僕たちの人生にとって必要不可欠なものであったとしたら、その感情をどのように扱えば良いのでしょうか。
人間関係や家族によって炙り出されようとしている、忘れていた感情に真摯に向きあうことがさらなる成長を促すのだろうと思います。
それは各個人に与えられた素敵な機会なのですが、怒濤のように襲ってくる負の感情のように思って撃退してしまいそうです。
まるで、自分の人生をブロックする要因のように。
傷つくことはいけないことでしょうか?
魂が磨かれる道程だとしたら?
傷つけ合うことを怖れて、感情的になることを圧し殺してしまったら?
人と深く交わることを止めてしまったら?
平安でしょうか?
子育てをしているママさんとお話しすることが多いですが、疲れている心の向こう側に見える研磨されている魂を美しいと思うことが多々あります。
それはのっぴきならない状況が導いてくれているのかもしれません。
僕にもその状況に感謝できる勇気をください、といつも天使にお願いしています。