【インドへの旅、そのプロローグ】Amalin Story#3

Amalin Story#3 (#1と2からのつづき) 私が旅立つ時、スピリットの風が吹く。初インドへのスピリチュアル・ジャーニー。新生アマリンの誕生物語。

さて、ソウル空港で出迎えてくれたパクさんが準備してくれていた私の宿は、OSHOの弟子でもあるその当時50歳半ばくらいのドイツ人 ビジネスマン ポールの住む社宅でもあり、小高い陽だまりの丘上にたたずむ瀟洒でお洒落な豪邸でした。

その豪邸には当時のスピリチュアル系花形作家であり、OSHOの本の翻訳も手がけ何冊もベストセラーを出していたことでも有名な、キザでインテリでスピリチュアルリーダー的なシバ リュウ、透明感のある美しくワイズな韓国女性たち、新進気鋭だけど面白い絵を描く画家二ルビカと、住人たちも斬新で豪勢な人の集まりで、その頃(1989年)の韓国では、おそらく一番面白く、流暢でアカデミックな家だったのではないでしょうか。
ラッキーにも、飛んで火にいる虫の如くに、すっぽりとその流れと雰囲気に嵌り込んでしまった、当時とてもヒップな私でした。

思い返せば、80〜90年代頃は突然の起こりで流れていける旅がそこらじゅうに充満していて香りも高く、若く突飛で個性的な私にぴったりの「風の向くまま、気の向くままというひとり旅」がしやすい時代背景でしたが、若さゆえに許される旅だったのかもしれません。
「超」がつくほど楽しく、面白く、飽きることのない日々でした。

その豪邸に数週間いる内に、これまたすごい! 存在のとりはからいみたいな、すごく深くて高いスピリチュアル体験が準備されていたのです。

そんなこと知るよしもない暢気な休日を過ごす私でした。

 

[韓国、晩秋、驚き! のスピリチュアル テスト連続の日々]

ある日の午後、外気が冷え始めてきた晩秋の韓国、オンドルで暖かい陽だまりの丘の上に立つ素敵なお家で気楽にくつろいでいる私に、突然のお誘いがやってきた。
それは次の土日に家の住人である彼らの友人の会社の慰安旅行があり、みんなで近隣の山に一泊二日で登りに行くから一緒に行かないか? という通常は滅多にないだろう、地元の人達だけできる秋の行楽へのラッキーなお誘いだった。
とはいえ、私はその当時には山登りなどしたこともなかったし、さっぱり想像もつかないし「スニーカーもないし、山登り用の洋服もないから行けないよ。」と家人に向け言い放った。
すると、家中の女性達があれよこれよと自室から持ち出してきて、あっという間に「山登り」の準備が整ってしまったから選択の余地はほぼないに等しく、行くことに決定される。

私のアメリカ渡米以来の旅の心構えである「風の向くまま、気の向くまま、流れに乗って生きるに習い、その家人全員のサポートの流れに乗ったまま、翌日早朝に迎えが来て近隣のバス停からそのお山に向け十数人のワンダーフォーゲル同好会の有志と、全く意味不明の韓国語ワイワイ、ガヤガヤ、息あいあい、バスに乗って登山の目的地に向かう。

しかし、バスを降りる頃には重くてグレイな空模様。

ちょっと怪しげな予感……、「???」

 

[一寸先は闇、今ここは光!]

驚きは韓国人の持つ強烈なバイタリティーの持続性! これも、ニンニクと唐辛子のなせる技!

全員が小分けして食料や飲み物をリュックに詰め込んで持ってきたらしく、バスを降りたすぐ近くの草原でコリアンバーベキューの始まり、ジンロ焼酎を片手に焼肉で大々的なピクニック。
手分けして随分の重量を背負ってきたに違いない。

一気に目的地に向かう頑張り屋さんの日本人とはちょっと違う。
私の知っている日本人は、どしょっぱなからパーティーはしないな。
自然の中で食べる手持ちの焼肉と焼酎、私はゲストで何も担いでいないことも含めの便乗パーティーだから、野原で食べる本場の焼肉は相当美味しかったですよ〜。

忘れられない味と懐かしい雰囲気と、この先に表出する驚きのストーリーが、ちょっぴり甘くて苦みのあるメランコリーでグレーな景色を今も心に思い描けます。
そこには、曇り空に対する少々怪訝な疑いと個人的で感傷的な気分ものっています。
でも、言葉に出したらいけない言葉、禁句です。