心理セラピストが語る!『差別と偏見とニートとスネップと…』とは?

心理セラピストが語る!『差別と偏見とニートとスネップと…』とは?

存在の有無が謎の有名人、聖徳太子の言葉に「和を以って尊しと為す」という言葉があります。簡単に言うと、「協調性は大事だよ」とか「みんなで仲良くすると良いよ」という意味です。

この言葉はとても深いと思います。ただ気をつけて欲しいことがあります。この言葉は、ワールドワイドの視野で解釈して欲しいのです。

「さすが日本人は(他の国とは違って)良いことを言う!」と解釈してしまう人は要注意です。自国を誇りに思う事は大切です。ただ、そっちをメインに解釈してしまうと、その時点で「和」のスケールが小さすぎて、何の役にも立たなくなってしまうのです。

今の時代は100%国際社会だと言い切って良いと思います。そんなグル―バルな時代だからこそ、「和」の対象も広く解釈した方が良いのです。

今、僕たち日本人が生きて行くためには、もっともっと世界の人たちの事を理解して、上手にコミュニケーションを取って行く事が必要です。

と、冒頭から大風呂敷を広げた話になってしまいましたが、その裏では、ちょっと危機的な問題も存在しているのです。

「ニート(Not in Education, Employment or Training)」という言葉を聞いた事があると思います。厳密な定義は無く曖昧な気もしますが、勉強するわけでもなく、仕事をしていなくて、その為の訓練もしているわけではない人たちの総称ですよね。

この言葉そのものに罪があるわけではないと思いますが、残念ながらこの言葉はネガティブなイメージが付随している気がしませんか。定義では無く、イメージです。

その人の意欲や気持ちは配慮せず、「やる気の無い人たちの総称」という意味合いで使われている事が多い気がするのは僕だけではないと思います。だとすると、これって完全に定義と関係なく別の意味合いで定着してしまった言葉ですよね。極端に言えば厄介者のレッテルですよね。

そう考えると、この暗黙の定義で定着してしまったカテゴリに属していると見なされている人たちからすれば「和」(コミュニケーション)もなければ「尊さ」も無くなってしまうのです。

元々は差別するためではなく、そういう人たちが社会に属して何らかの形で身動き取れるように支援できたら良いなと思っていたと思うのです。実際、この手の問題を真剣に考えている人たちは、今もそう思って、いろいろ考えてくれていると思います。しかし差別的な意味合いがどんどん拡散されてしまうと、私たちの社会は結果的に、人と人との間に大きな距離を作ってしまいかねないのです。

最近、「スネップ(solitary non-employed persons)」という言葉が使われ始めたそうです。これも悪意があって生まれた言葉ではないと思います。しかし、ネットで検索してみると早速「ニートでボッチ(ひとりぼっち)でひきこもり」という書かれ方をしているのです。

そのような表現をしている人たちも、きっと悪意は無く、何となく、そんなふうに解釈して、何となくそのように表現しただけなのかもしれません。

ただ、これだと「ニートがパワーアップした!手ごわい相手だ!」という意味合いですよね。

そうなって来ると、誰かにそのように言われた人に限らず、自分で自分を自虐的にカテゴライズしてしまった人たちは、どんどん自己評価が下がってしまい、結果として余計にコミュニケーションの取りづらい環境を作り出してしまうのではないかと思うのです。

ワールドワイドな話から始まってニートやスネップの話になって、次は僕個人の話へと進みます。どんどんスケールが小さくなった来た気がしますが、大事なことなのでこのまま読み続けて下さい。

僕は小さい頃から人見知りでした。ご近所さんと気軽に話す事も出来ませんでしたし、親戚ですら怖かったです。もちろん、ご近所さんや親戚が悪い人だという事ではありません。単に僕が一方的に人間を怖がっていただけです。もちろん人間が嫌いなわけではありません。それが対人恐怖症を意味するのかどうか、それもわかりません。でも、とにかく人見知りでした。

今でこそ、人様のお話を聴いたり対話したりする事をしていますし、こうして平然と自己主張をしたりしていますが、実を言うと、やっぱり人見知りは厳密に言うと治っていません。初対面の人とお話する時は、それなりに緊張しますし、少しでも外見が怖い人を見ると、逃げたくなります。

「なんだ…。心理セラピストのくせに、現在進行形で人見知りなのか…」と失望されてしまうかもしれませんが、そもそも人見知りとは病気でも治すものでもないのです。大事なのは、そんな自分自身を客観的に理解し、受け入れ、その上で、どうすることが自分にとって最善なのかを思考錯誤しながら対処して行く事が大事なのです。そうする事によって、人見知りであろうとなんだろうと、人とお話できますし、仲良くだってなれるのです。

生まれ持って、社交的だったり、人心掌握術に長けている人には理解しづらいかもしれませんが、その辺りは、ハッキリ言えば個人差なので、良いとか悪いとか理解できないとか、そういう問題では無いのです。世の中には、人見知りな人もたくさんいるという現実を知ることも大事だと思います。

そう考えると、コミュニケーションについての考え方も少しは深まって来ると思います。では、コミュニケーションとは何なのか改めて考えてみましょう。

「コミュニケーションとは誰かと繋がろうとする勇気と行動である」と僕は主張しておきます。誰か(社会の一員)と繋がることで、人は社会と接点を持てるのです。その為には、元からフレンドリーな人以外は、それなりに勇気を振り絞っているのです。

その勇気を無視して「嗚呼、ニート(orスネップ)ね…」という扱いをされたら、その人たちは自分は迫害されたと解釈し、それこそ人生が生きづらくなってしまうのです。

僕は、決して言葉狩りをしたいわけではありません。ただ、いつも強く思っているのですが、言葉には言魂(コトダマ)があるので、少しでも変なイメージがついてしまったら、気付いた段階で軌道修正する習慣が大事なのです。

人と人とが共存共栄して行くためには、自分自身の言動が相手を傷つけていないか、差別や迫害をしていないかを意識する事も時には重要なのです。