子育ては常に決断の連続であり、世の中のママさんはひょっとしたら人知れずその決断を迫られ、成し遂げているのかもしれません。
それはパートナーにも知られず、気づかれずに、成し遂げられていくこともあるかもしれません。
自由意思とは
スピリチュアリティを扱っていると人間哲学や心理学などと同じく自由意志という言葉を使うことがしばしばあります。
自由意志とは、何でも自分で決めていいという、まさに自由です。
そして、それは同時に何でも自分の責任になるという拘束になりうる可能性もあります。
我が子に対しては「親としての責任」となります。
まだ、言葉を話すことができない我が子の代わりに何でも決めなければならないと言ったほうがいいかもしれません。
その人知れず行使される自由意志は、生後間もなくから始まることになります。
我が家に生後2ヶ月の段階で市の保健所から予防接種の通知が届きました。産後、ようやく日常のペースがつかめてきた時であり、まだ産後の疲労をぬぐえずにいる中に娘の人生に影響があるような選択を迫られるわけです。
たかが予防接種と思えずにいました。副作用の問題は知り合いからも聞いていましたし、予防接種の種類も自分たちが経験した頃とは数が増えていましたので、娘にとってより良い選択は何であるか?と思い悩むことになりました。
ある予防接種は多くの副作用を生み、社会的な問題にもなりましたが、新聞やテレビなどのメディアではあまりそのことを扱っていませんでした。
周りの人たちがそうしているから、そういう習慣だから、おすすめされたから、ということで娘に関する決定をしたくはないということが家族で出した答えでした。
自由意志を行使する際に経験することのひとつは周りからの誤解や評価です。
アイルランド出身の劇作家であるジョージ・バーナード・ショーは、
「自由とは、責任のことである。だから、たいていの人は、それを恐れたりもする。」
と言葉を残しています。
何でも自分の決められるということは、その責任をすべて自分で請け負うということでもあります。
それは時にとても面倒なことです。
何も考えずに誰かに判断を任せてしまったほうがとても楽です。
「手放すこと」と「思考停止」は違います。
責任転嫁したい自分
先日、娘の小葉が1歳と半年になる頃合いを狙って断乳をすることになりました。
「おっぱいを終了する」
という活字にすれば、ひょっとしてなんともないことのように見えるイベントは僕たち夫婦の自由意志というテーマを深く考えさせる事件といってもいい出来事でした。
何でも決めて良いという自由は、とても怖いものだと感じます。
それこそ、断乳をしなければならない状況に追い込まれたほうが良かったかもしれません。
来月から仕事が始まるから
ママが入院してしまったから
子育て本に書いてある通りにするから
周りからのアドバイスや干渉
つまり、責任転嫁できるわけです。
誰かに、状況に、環境に…。
娘を犠牲にしているのではないか、親の勝手ではないかなどの罪悪感や怖れが湧き起こってくると、始めに決めたはずの自由意志に迷いが生じます。
それこそ、責任転嫁したい自分に屈服したくなります。怖れを自分たちだけでは持ちきれないというわけでしょうか。
医師、保健師、保育園や幼稚園、学校の先生…
「え、先生が言っていたから…」
「そういうものらしいよ。」
「○○ちゃんのところはそれで失敗したらしいよ。」
と思考丸投げでいたくなるかもしれません。
特に、自分で決めたものの、面倒な気持ち、悲しい気持ち、何かを犠牲にするのではないか?という不安がむくむくと湧き起こってきたら、何かに依存してしまいたいと思うのはとても当然なことだと思います。
自由意志を行使して、その結果やプロセスに起こるものすべてを自分で請け負うというプレッシャーは自分の人生だったら、適当に誤魔化すことができるかもしれません。
しかし、子育てにおいては誤魔化すことはできず、親としての直感を信頼して自由意志を行使することが多くあります。我が子に訊くこともありますが、最終決定は親の感覚です。
その過程で感じざるをえないさまざまな感情を胸に秘め、自由意志を行使していく親業というものはとらえ方によってはプレッシャーの連続かもしれません。
そのために、パートナーシップや周りとの協調、常識という枠で思考停止しない姿勢はとても大切だと感じています。