ココロセラピストが語る!『コミュニケーション』って難しい?~複雑な時代を生きるために~

「気遣い」や「思いやり」は普遍の法則

コミュニケーション能力について考えてみたいと思います。実際問題、自分が生まれてからの事しかわからないので、過去の方々のコミュニケーション能力が高かったかどうかは僕にはわかりません。
だから「今の人はコミュニケーション能力が低い」と言い切って本当に良いのだろうかと改めて問い直してみると難しいところです。

現代でも名残はあるかもしれませんが、人種差別、出身地差別、性差別、学歴差別、余所者差別、村八分…等を考えると、そのような差別がある時点で決してコミュニケーション能力が高いとは言い切れません。

必ずしも万人と仲良くすることがコミュニケーションとは思いませんが、無駄な争いを避け、共存共栄、或いは必要以上には関与しないけれど、いざという時は助け合える。支配と服従ではなく、横の関係である程度、本音を言い合えて、理解し、共感し、意見が違っても即、戦いではなく相手の主張を聞いてみようという気持ちがある。これらをコミュニケーションが高いという解釈でいいと思います。

現代に関して言えば、確かにコミュニケーションが難しい気もします。能力が低いかどうかではなく、環境の話です。今の時代は、情報量が多過ぎること、行動(移動)範囲が広いこと、経済活動がメインの社会で時間に追われて生きている人が多いこと。これらの多様性が、絡まってしまったが故に、地域性や個々人に対応したコミュニケーションに適応できず、それをコミュニケーション能力の低下、あるいは欠如と思ってしまっているのかなと感じる時もあります。

しかし、環境が原因で僕たちのコミュニケーション能力が最初から低いわけではないからそれで言いのかというと決してそういうわけではありません。

もしも環境がコミュニケーションというものを困難にしているのであれば、ひとりひとりが、具体的に何をどのように改善すれば、より良いコミュニケーションを取れるようになるのかを考える必要があります。

冒頭から堅苦しい話になってしまいましたが、身近な話をします。

例えば、誰かに何かをしてもらっても「ありがとう」という言葉がスっと出ず「あぁ…」で終わってしまったり、自己主張はするけれど、相手の言い分は考えないで言いたい放題たったり。学校でも会社でも、そういうコミュニケーションばかりになってしまうと、僕たちは生きづらくなってしまいます。

例えば、忙しいからといって自転車で歩行者を「どけどけどけ~っ!」と言わんばかりに突っ込んできたり、自動車の運転も、ウィンカーを出すより前に急に曲がってきたり、ちょっと邪魔だとクラクションを鳴らしたり。こういうのも、コミュニケーションなのです。コミュニケーションというと言語でやりとりをするイメージが強いかもしれませんが、ノンバーバル(非言語)なコミュニケーションも僕たちの生活にとっては大きな意味を持っています。

これらの例が何を意味しているかというと、相手の気持ちを考えるスキル(あるいは余裕)が不足しているのです。時間に追われて生きているのに、ところ変われば立場も変わって、その都度、対応を考えていたら疲れてしまう。脳が瞬間瞬間にコミュニケーションに対応していられないとなると大問題です。

しかし、ところ変わっても、立場が変わっても、変わらないものというものがあります。それは「気遣い」であり「思いやり」です。これは普遍の法則と言ってもいいと思います。それらの基本さえ、身体に染みこませておけば、そして手を抜かなければ、コミュニケーションというのは、性格の悪い方と接するときや、言葉が通じない人と接する時、難しい交渉をするとき等の例外を除けば、実はそれほど難しくないのではないかと思います。

コミュニケーションは経験によって学習するものではありますが、これは単なる知識やスキルではないという事は、現代人にもこれから先の世代の人にも絶対に忘れて欲しくない事です。ビジネス・ツールとしてのコミュニケーション・スキルの本やセミナーが流行っていますよね。もちろん、それらが悪いわけではありません。ただ、それらを営利目的のためだけのコミュニケーションというスキルと解釈してしまう人が残念ながらコミュニケーションを履き違えてしまうのです。

コミュニケーションの原点は、「人間は一人では生きていけない」というところから来ているとイメージするとわかりやすいかもしれません。喧嘩をしないためでも、誰かを操るためでもなく、お互いが幸せに、平和に暮らせるために必要なものなのです。だから、先ほど「気遣い」「思いやり」という言葉を使ったのです。

人と接する方法、楽しさを幼少期に知っておくことが大切

重要な事なのですがコミュニケーション能力は、大人になってからも自主的に学んだり、学校や会社で学んでも良いのですが、もし、あなたが親だったら、お子さんが小さいうちに徹底的に教えたほうが良いです。勉強やスポーツの習い事もいいですが、とにかくコミュニケーション能力を高めるなら小さいうちが良いです。

何故そのように思うかをお話します。先日、とあるショッピングモールのフードコートにて、このような場面に遭遇しました。

登場人物は、母親と娘(小さな子)2人。子の1人は携帯用ゲーム機をいじりながら食事をしていました。耳にはイヤホンをつけているのでBGMを聞いているのでしょう。もう1人の子はコミックを読みながら食事をしていました。それだけでも充分に違和感があったのですが、母親は、そんな子供たちに興味なさそうに、黙々と食事をしていたのです。もちろん1つのテーブルを囲んで。

休日にお母さんが子供たちを連れて楽しくショッピングに連れてきて、好きなものを食べさせてあげた…と思いたいですが、これでは残念ながら家族でお出かけしたという思い出にはならないでしょう。子供たちの自主性を尊重してるようにも思えません。せっかく、親子でお出かけして一緒に外食しているのに会話もなく、そして食事そのものに対する喜びも感動もなく、家でもできるようなこと(ゲームやマンガ)をわざわざ出先でする。昭和までの時代だったら考えられない光景だと思いました。

ただ子供たちを視界の入るところに置いておいて、定期的に栄養を摂取させればそれで良いと思っているわけではないと思いたいですが、正直残念な気持ちになりました。

無理に笑顔を作って社交辞令で楽しそうに会話を弾ませて食事をする必要はありませんが、せっかく、みんなで集まって食事できる貴重な時間です。こういう時こそ、コミュニケーションの重要性を身体で覚えさせてあげることこそが、愛情であり、教育だと思います。

この時期に、このようなコミュニケーション方法が普通だと認識してしまうと、親から離れた環境(学校や会社等)に行ったとき、それこそ浮いた存在になってしまいかねません。意思疎通ができませんし、自分しか見えていなくて当たり前になってしまうと、これは人生において致命傷になってしまいます。

確かに後天的にも、その方の素質や努力、意識のあり方などでコミュニケーション能力は向上すると思います。しかし「価値観の思い込み」や「習慣」は、強力なパワーを持っています。

心を病んだ方などとお話を聞かせていただくと、ほとんどの方が「(何か間違った)思い込み」に支配されて苦しんでいるように思います。これを専門用語で『認知の歪み』というのですが、これを修正する事(カウンセリング等)が、これがまた時間がかかるのです。

逆に、人と接する方法、楽しさを幼くして知っておけば大人になってからの人生は大幅にプラスになると思います。どんなに忙しくても幼少期の子供との接し方は、充分に愛情を注いでください。