伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.27 仏の最高の悟りの智慧

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.27 仏の最高の悟りの智慧

仏教的アドヴァイタ

質問
「世諦(世俗的な論理)とは、どういうものでしょうか?」

希運禅師
「ごちゃごちゃ思考して、何になるんだ。
もともと清浄なものを、どうして言葉や問答で掴むことができるか。
ただ一切の心が無いというだけで、そのまま無漏智(悟りの智慧)なのだ。

君は、日々のすべての行いと言葉において、現象世界のものに囚われてはいけない。
そうすれば、何を言っても、瞬きの一瞬でも、すべて真の悟りの修行になる。

今は、末法の時代になってしまい、禅の道を学ぶ者は、皆、現象世界の物事に囚われている。

なぜ自分の心に、取り組もうとしないのか?

心を、空(くう)と同じにして、枯れた木や石のようにし、冷えた灰や消えた火のようにすれば、少しは可能性があるだろう。もしそうしなければ、皆、閻魔に処刑を受けるぞ。

君は、あれやこれやの教えから離れて、その心が、虚空に太陽があって、自然に輝き、照らそうとしていなくても自然に周囲を照らすようであれば、面倒な事をしなくてもいいではないか。

この境地に達すれば、住む場所も無くなり、そのまま自然に仏の修行をしているということになる。
すなわち、「住むところなくして、しかもその心生ず」(自分という存在から生まれる特定の境地という幻想が消える)というものだ。
それこそが君自身の清らかな本質であり、仏の最高の悟りの智慧である。

もしこの意味に気付くことが出来なければ、たとえ君が多くの知識を獲得し、激しい修行をし、草の衣服を纏い、木の皮を食べても、自分の心を見つめ、目覚めることはできない。
邪道の修行をしてしまい、魔の遣いになってしまうだろう。
こんな修行に一体何の意味があるというのだ。


(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

【解説】

黄檗希運が一貫して述べているのは、この世界のすべてが、はじめから仏であり、はじめから清浄であるということです。
だから、仏を求める修行、悟りを求める修行は、その前提を否定するので、すべて邪道ということなのでしょう。

それは、思考によって見出すことはできないようです。
心そのものが滅せられた時に、それにダイレクトに気づくようです。
もちろん、気づくことそのものを対象化して追い求めるのも、また違うのかもしれません。

なにか特殊な境地を求めて修行をすると、魔の遣いになってしまうとまで言っています。
特殊な境地は幻想であり、最初から虚空には、太陽が輝いているということです。
私たちは、もともと清らかであり、すべては仏でしかないということなのかもしれません。