伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.26 説くべき説教もない。みな帰りなさい。

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.26 説くべき説教もない。みな帰りなさい。

仏教的アドヴァイタ

師匠は説法の席に座って、このように言われた。

「百種類のことについて博識であるよりも、求めるものがない、ということが何より一番大切なことだ。
道にある人というのは、無事の人である。
ああしよう、こうしようという心はなく、また説くべき説教もない。

用はない。
みな帰りなさい。」


(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

【解説】

黄檗希運は、説くべき教えなどないので、みな帰りなさいと言っています。
しかし、この黄檗希運の態度そのものが、大変高度な教えになっていると思います。

悟りの知識や概念をいくら集めても、悟りを対象化して求めている限り、決して悟りは得られないということなのでしょう。

悟りは求めるものではない、そもそも、求めるものなど何もないということに気づくということ…それ自体が悟りなのかもしれません。

しかし、その気づきを対象化して、それを求めようとするなら、また別の方向に行ってしまうのです。
いや、方向などはじめから存在しないのかもしれません。

だから、説くべき教えなど、はじめから存在しないのかもしれません。

昨今、日本のスピリチュアルの世界でも、悟りや覚醒がブームになっています。
これは、黄檗希運が言っている、悟りを対象化してアイテムのように求める、という態度そのものだと思います。

このような態度であるかぎり、その悟りは、妄想でしかないということになります。
自分と悟りとの間に距離を想定して、そこを埋める努力しても、全く意味のないことであるというのが、黄檗希運のメッセージなのかもしれません。

結局私たちは、全てを捨て去る必要があるし、その捨て去るということも捨て去る必要があるのです。
概念化して求めるという作用そのものに問題があるので、そこを超越できるかどうかがキーポイントなのだと思います。

でも、超越しようとした瞬間に、それが概念化されてしまいます。
これが悟りの難しさであり、アメリカで流行しているアドヴァイタ系のダイレクトパスと言われる方向性の分かりにくさなのかもしれません。