伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.25 数千もの方法論を説いても、まったく無意味だ

伝心の法則~ある偉大な老人の教え Part.25 数千もの方法論を説いても、まったく無意味だ

仏教的アドヴァイタ

質問
「目の前にある空(くう)というのは、対象化された概念ではないでしょうか?
そうであるなら、概念を指して心を見ているのではないでしょうか?」

希運禅師
「一体どういう心で、君はその概念を見ているんだ?
たとえ君が見ることができても、それは、概念を投影した心を見ているにすぎない。
それは、鏡で顔を見ているようなものだ。
たとえ、目や鼻をはっきり見ることができても、それは鏡に投影された像でしかない。
本物の顔ではない。」

質問
「でも、鏡に映すという手段を用いなければ、見ることなどできないでしょう」

希運禅師
「もし手段を使うなら、いつも何らかの方法を手段としなければならなくなって、いつまで経っても終わりはない。
ほら、君のような者に向かって説かれた言葉がある。
『手を開いて見せても、そこには何も無い。数千もの方法論を説いても、まったく無意味だ』」

質問
「もし悟ることが出来れば、鏡に写った物が、消えて無くなるのでしょうか?」

希運禅師
「もし物がないなら、なぜ鏡に写す必要があるのだ?目を開けたまま寝言を言うな!」


(日本語訳は、「伝心法要・宛陵録」入矢義高著 筑摩書房刊 を参考にさせて頂きます)

【解説】

弟子は、空(くう)というのは概念ではないか、と尋ねています。
希運禅師は、概念だと認識すること自体が、概念としての空を生み出すということを言っているのではないでしょうか。

まるで、認識作用そのものが、対象に影響を与えてしまうという量子論的な世界観です。
ですから、その認識作用の枠内で、いくら概念を消そうとしても、あくまでその枠内でのことであって、その枠そのものが消滅しない限り、意味が無いのかもしれません。

もちろん、その枠を消滅させようと意図したら、その瞬間に、枠自体がまた新たな枠内に入ってしまうので、大変難しいのです。

黄檗希運は、このようなやりとりを通じて、弟子がダイレクトに悟りに気づくように促していたのかもしれません。