エンジェル・セラピスト®夫婦のスピリチュアル子育てPART.51~紙おむつと布おむつ論争―その価値観は許されている(潤治編)

エンジェル・セラピスト®夫婦のスピリチュアル子育てPART.51~紙おむつと布おむつ論争―その価値観は許されている(潤治編)

心のリスクを背負い、子どもに寄り添う

娘の小葉を連れて、児童館や子育てコミュニティにお世話になりに行くと、多くの子育て奮闘中のママさんがいます。
子育ては親の心育てと実感することが多々ありますが、その学びを受け取るにはパパの持久力では持たないことがあります。女性のタフさが無ければ子育ては不可能と思う日々です。子育てしながら、フルタイムで働くというのは、もう神の領域と感じています。
動き回る幼児、感情のだだ漏れに対するご機嫌伺い…とそれに対応しているママさんたちを見ると、右往左往している自分がとてもちっちゃい存在に思えてきます。
それでも今、目の前にある課題に正直に、出来れば懸命に取り組んでいきたいと笑顔で笑いかける娘の小葉を前にすると思います。

先日から、小葉のトイレットトレーニングを始めることになりました。僕自身のことは忘れてしまっていますが、僕の生い立ちの中にもおねしょなり、おもらしなりもあったはずで、それを思うと誰もが通る道なのだろうと思います。
しかしながら、今まで使っていた紙おむつの便利さは親にとってとても便利です。外出するのも楽ですし、排泄に関して、洗濯や掃除などの手間にもなりません。
紙おむつと言いますが、原材料は石油由来のものですから、肌に対して厳しいということは容易に想像がつきます。経皮毒という問題も直視していけば、本来のあるべき姿のようなものもイメージできるかもしれません。メーカーの謳い文句のような「赤ちゃんに優しい、12時間さらさら、肌に優しい」という言葉につい甘えてしまう感覚もあります。メーカーがそう言っているのだからという判断の依存です。
親としてこどもに何がベストなのかはこどもに訊くのが一番という姿勢で今回のトイレットトレーニングとなりました。

お風呂上がりに紙おむつをする時、彼女はとても嫌がります。裸が気持ち良いということもありますが、紙おむつの感触がだんだん我慢出来なくなったようです。布おむつを試すようになってお風呂上がりに娘自ら、布おむつを持ってくることがありました。

「やっぱり、布の感触が良いんだね。」

夫婦で出した結論は多少面倒でも娘の小葉の快適さを優先することでした。
紙おむつに慣れてしまったために、おしっこやうんちをしてもそのままでいることが始めのうちはありましたが、すぐに不快という感覚を覚えてくれたようです。適切な排泄、我慢やタイミングなどを身体で覚えることは性格形成でとても重要な役割をもたらすと言われています。フロイトの「5つの性的発達段階:肛門期」という考え方です。
トイレットトレーニングをしつけとして厳しく教えるのではなく、寄り添い、後処理や用意など大人にできることを面倒くさがらずにやっていきたいと思いました。そういう意味では、おむつメーカーにリスクを背負わすのではなく、親が心のリスクを背負うと言えるかもしれません。

多様性を認める

多くのママさんと接していくうちにそれぞれの価値観があり、何を選択し、何をあきらめるかという問題に触れることがあります。
子供にとって良いことという尺度が親の押しつけになる場合もあります。布おむつを忙しさの中でイライラしながらこどもを叱りつけて交換していたら、本末転倒です。それならにこやかに穏やかに紙おむつを使ったほうがいいかもしれません。

紙おむつは経皮毒の問題もあるので危険とも言われます。データもあり、それには疑う余地はないでしょう。しかし、布おむつが絶対という価値観も危険だと僕自身は思います。多かれ少なかれ自己矛盾があるからです。
僕の場合で言えば、食生活をベジタリアンにしていながら、白髪染めは市販のケミカルなものを使っていました。いつも白髪を染めては、頭痛がするという始末でした。一年ほど前から自然由来のものを使うようになりました。
あれほど砂糖・トランス脂肪酸・環境ホルモン・食品添加物などを避けていながら、白髪染めに関してはケミカルど真ん中を選択しているわけです。自己矛盾にもほどがあります。
その自己矛盾を隠す必要はありません。ですので、何を選択するかはその人の価値観や都合、感覚的なものに委ねられていて、その価値観に添って自然に選ぶことです。こうしなくちゃいけない、こうあるべきという自分に足かせや束縛を課すようなことは止めた方が良いと思っています。作用と反作用の法則で必ず無理をしているとその反動がやって来るからです。

例えば、排他的になるということや一神教のような感覚でしょうか。
紙おむつを使う・布おむつを使う。その価値観は両者とも「許されているもの」だと感じます。どちらが正しい・間違っているという見方ではなく、「許されている」という視点です。
価値観の衝突や排他的になるのは、間違っていないと叫びたい心の弱さが表出したものだと感じます。

布おむつを使いながら、おまるの外に出た娘のうんちを手でつまむ自分を見て、「正解など無いよな…。」と思う今日この頃なのでした。
「それをしたくなったら、やり始める時。」
いつも自分に言い聞かせている言葉です。
今回、布おむつにしたくなったわけです。